今月号の「新潮」(ECDの小説が載っていると知って買った)に、中原昌也のインタビューが掲載されていて、あまりに真摯な言葉に打たれてしまった。特に次の言葉には、思わず赤線を引いてしまった。

誰もがよかったよかったと思える話のために、文字は存在するわけではない。個人個人が、ひとつしか持てない自分の考えに接近するために、文字が必要なんです。共感のためではないんです……と、ちょっとエラソウに言ってみました(笑)。そういうのがあるから、人間は時代を超えて同じ存在であると了解できるのに、原始的なものに酔っていたらジャンキーや廃人と同じだもん。

特に「自分の考えに接近するために」という部分に強く魅かれる。決して、「自分を表現するため」ではない。文字を介したときに初めて出会うことのできる、自分発の他者に接近するってことなんじゃないかな。


そうそう。先週、テアトルタイムズスクエアで『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』って映画を観たんだ。自分の不明を恥じるばかりだけど、この映画で俺は初めてジョニー・キャッシュという人を知った。他人の気持ちなどお構いなしに、自分の情熱が命じるままに求婚するジョニー・キャッシュという人物は、とうてい感情移入や同情の対象ではない。なんて居心地の悪い映画だろうと思った。ある人物の心理が解明されて、観客が納得できたりする映画ではなく、ただひたすら自分自身をもてあまして他人を傷つける主人公の行動が描かれている。だけど、それはひどく心打たれる。自分が自分であることが、不条理でしかありえない。それが当たり前なんだ。
ジャンキーとして病んでいるジョニーは、単なるはた迷惑な廃人でしかない。そのこと自体に同情の余地はない(同情の余地は描かれるけれど、同時にそれは誰にでもあるエピソードでしかないようにも感じた……っていうと冷たいけど。人にはそれぞれ事情がある)。それでも、彼を必死で守ろうとする恋人とその家族がいる。そのことがあったからと言って、彼らとのあいだで、和解があるわけではない。ただ、どんなに不条理な存在であっても、その存在が生きていることを否定する根拠など、この世界のどこにもない。
以前に書いたエントリの補足になるかもしれないけれど、正当な理由があるから人は生存を許されるわけではないし、否定されるわけでもない。ただ、いる。それだけ。
そして、それを肯定しようという強い意志は、「理想」などと言われるけれど、つまらない現状追認だけでは自分の人生ですら肯定できない(でも、このことについては、いつか改めて考えてみよう)。