ジイ・ダブリュのあいだ、タケノコ掘ったり、本を読んだり

KINO Vol.1
房総に遊びに行ってたんだけど、電車の中でなにか読むものが欲しいなぁと思って、買ってみたよ。
のっけからこんなこと言うのもなんだけど……変な雑誌だった。
巻頭言としてこんなことが書かれている。

マンガほど健全なジャンルは余りない。マンガの世界では、一番面白いマンガが一番売れている。一番売れているマンガが一番面白い。大げさな言い方をすると、正しい民主主義と正しい資本主義が成立している。本当である。

ああ……うう〜ん……「本当である」なんて言わなければいいのに。と俺は思ってしまう。
なんで? だってさ。たとえば、「1980年代以前のメガヒットマンガ」というエッセーでは、『あしたのジョー』や『巨人の星』が取り上げられているんだけど、そのことの意味と、雑誌全体が目論んでいる世界像とのあいだに、乖離があるように感じられる。それらのマンガが同時代にどれだけの部数売れたのか、ということと、たとえば現在『バガボンド』や『DEATH NOTE』が何百万部も売れていることとは、比較できない大きな隔たりがある。隔たり? まず第一に、『あしたのジョー』や『巨人の星』が連載されていた時代と、現代とで、母集団となる「マンガを消費する読者」が変わってきているのではないか? 俺だって想像でしか語れないんだけど、『あしたのジョー』や『巨人の星』を消費する集団というのは、現代の読者層に比べたら比較的、狭くて、「かぶっている」んじゃないのか? あー。うまく言えないな。つまりさ、そもそもマンガを読む集団自体が、100万人だったら100万人だとして、その中の80万人が『あしたのジョー』も『巨人の星』も読んでたんじゃないの?ってこと。それに対して、現代のマンガ読者は、『バガボンド』に対して100万人、『DEATH NOTE』に対して100万人、なんじゃないのかな。足してしまえば、確かに200万人かも知れないけれど、足すことに意味がない。一枚岩の「マンガ」という基盤がない。つまり、それぞれの読者層はかぶっていない。だとすると、ここには「民主主義」はない。単なる価値の相対主義があるだけ。これが、俺の実感なんだよね。この実感と、この雑誌が掲げる巻頭言とが、ずれている。売れているマンガを否定する、というのではなく、そもそも前提が成立しないのではないか?という疑問。
それぞれのマンガは売れたり売れなかったりしているけど、「マンガ」という状況がすでに成立していないのではないか? もはや、それぞれの作品の読者を総合して、「マンガ読者」と呼ぶことは不可能なのではないか?
つまり、ジャンルとしての「マンガ」など、もはや死んでしまっているのではないか?


一方で「マンガ新世紀宣言!!」と言いながら、一方で「メガヒットの法則」と謳うところに、なにか、「もの悲しさ」を俺が感じ取ってしまうのは、そういう実感に基づく。すでに失われてしまった「マンガ読者」という想像の共同体を検証せずに、「正しい民主主義と正しい資本主義が成立している」と言ってしまうナイーブさ。俺はこの特集に、終わりゆくものがかもし出すせつなさとでも言うべきものを感じてしまう。


だけど、もしかしたら俺が感じている「もの悲しさ」は、きちんとした検証がないから、ではないのかも知れない。
ありもしない「マンガ新世紀」などという状況を虚構しなくては、マンガについて語れないということそのものに、げんなりしているのかも知れない。
ここには、「熱狂」がない。
そう。そもそも、「状況」を語ろうとする論調に、熱狂はふさわしくない。熱狂にふさわしいのは、個別論だ。自分たちにとって、その表現がどのようなインパクトを「与えつつあるのか」を語るような個別論。そこには、正しさを目指すような律儀さはなく、ただただつんのめるような焦燥感がある。言葉でとらえそこない続けながら、なんとかその感情を捕まえようとするあがきのようなもの。
だからね。俺は、一本一本の作品につけられたレビューは楽しく読んだんだ。たとえば、次のような『タッチ』論の一節。

和也の死は、フィクションであることを超え、読み手の心になんとも言いがたい受け入れたがたさをともなって打ち込まれる、大きなくさびである。(中略)連載当時、これはないだろう、という抗議の声がわきおこったことは想像に難くない。作者が突如として強大な意志をもって物語に介入し、ひとりの人間を殺してしまったかのようである。だが、こんなのマンガだからだよ、と言いかけたとき、こうした理不尽な残酷さは時として、まさしく現実において降りかかりうるものだということに、わたしたちは気付いてしまう。

まるで実証的な検証を抜きにして「連載当時」の読者のリアクションが語られるが、そんなことはどうでもいい。ここには、このエッセーを書いた筆者の、切実な動揺が語られている。誤解を恐れずに言うが、この筆者は、『タッチ』を読むことで、「リアルな死」に直面してしまったのだ。それは、『タッチ』という作品の持つ力であると同時に、この筆者によって体験された誰とも交換しがたい一度きりの体験だ。
それが、熱狂というものだ。


ああ。いつもどおり、俺は論理を破綻させながらでしか、ものごとを語れないな。


この熱狂は、数字には換算できない。すまん。ごちゃごちゃ言ってるけどさ、『明日のジョー』の熱狂だって、『巨人の星』の熱狂だって、『バガボンド』の熱狂だって、『DEATH NOTE』の熱狂だって、数字であらわせるはずがないだろう?


奇妙な雑誌だと思う。巻頭言で宣言されていることなど、この雑誌のどこを開いても、論証されてはいない。幾人かの筆者たちによる(失礼な言い方にはなるが)論考とも言えないエッセーが並び、そこにはかつてマンガを読むことで、感情教育を施された者たちの「熱狂」の残滓がくすぶっている。それしかできないし、それでいいのだろうと思う。
が、不幸なことに、こうしてあたかもある種の状況論ないし回顧として特集された途端、それぞれの筆者たちの思惑とは違う、もの悲しさが漂ってしまう。


もの悲しさは、たとえば、「正しい少年マンガの作り方」という小論にある<少年漫画の作り方七箇条>にも漂う。俺はこれを読んだ瞬間、もうずいぶん前に「映画芸術」に掲載された笠原和夫の「骨法十箇条」を思い出してしまったのだが、それらに共通するのは、かつて大衆に熱狂を巻き起こしたジャンルのプロフェッショナルたちが、まさに自らの全盛期に使ったテクニックを惜しげもなく披露することによって、逆説的に、熱狂とはテクニックによって生み出されるものではないのだ、ということを証明している、という皮肉な悲しさではないだろうか?


とか言ってるけど、本当は掲載されているすべての文章を読んでるわけではない。いつもどおりの、酔いにまかせたテキトーなエントリーだけど、自分の気持ちに嘘はついてないっす。