肝心なときに本棚に『ボヴァリー夫人』がない

ロリータ、ロリータ、ロリータ
若島 正
作品社 (2007/10/23)
売り上げランキング: 49837
若島正の『ロリータ、ロリータ、ロリータ』を読んでいる。

しかし、この『ロリータ』論は俺に様々な本を想起させてしまい、そういう興奮でなかなか読み進められないのが心地いい。
たとえば、ナボコフ自身が書いた『ロリータ』の脚本の一節について、そこが小説版とほとんど一緒であることを指摘して、それがナボコフの夢想の中にしかない映画であると論じるくだり。
小説版の描写はこう。

階段の上からコントラルトの声が聞こえ、ヘイズ夫人が手すりから身を乗り出して、歌うようにこうたずねた。「ああら、ムッシュー・ハンバートさんでいらっしゃいますの?」それと一緒に、少量の煙草の灰がそこから落ちてきた。まもなく当の女性が、サンダル、葡萄茶色のスラックス、黄色のシルクのブラウス、角張った顔という順で階段を下りてきて、人差し指がまだ煙草をかるく叩いていた。

映画版、というかナボコフ自身による脚本の当該部分はこう。

ハンバートが見上げると、少量の煙草の灰が落ちてくる。まもなく当の女性が、サンダル、スラックス、シルクのブラウス、マレーネ風の顔という順で階段を下りてきて、人差し指がまだ煙草をかるく叩いている。

ナボコフはこういう描写を小説にも映画にも求めた。しかし、キューブリックもエイドリアン・ラインも(ちなみに両者ともナボコフ版の脚本は使っていない)実際の映画ではそのようには描写していない。
上記の描写は、まず一連の流れ(つまりワンカットの中)では表現できない、ということがある。「少量の煙草の灰」をとらえるクロースアップのフレームから、カットを割らずにサンダルへとは移動できない。ズームレンズを使えば、フレームを修正してサンダルのアップにふさわしいサイズにはできるだろうが、しかしそうした場合それは玄関からヘイズ夫人を見ている主人公の視線の描写としてはかなりおかしなものになるのではないか?
ナボコフの描写はいかにも映画的に感じられるが、実のところそれはやはり小説的な描写なんだ。
というような論を読んだときに、俺がふと思い出したのは、蓮実重彦が東大の紀要に発表した(単行本としては長年予告されているものの未だ出版されていない)『ボヴァリー夫人』論だ。大学生のとき、図書館でコピーして読んだ記憶がある。
ボヴァリー夫人』の中に、しばしば映画的と称される場面がある……と、ここまで書いて、どこだっけと本棚を見たんだけど『ボヴァリー夫人』がない! きっと前回の引越しのときに捨てたんだな……あとで確認するよ。ほら、確かエンマが家の中にいて、家の外からは日曜市かなんかの声が聞こえていて……っていう場面。
その場面を蓮実は「ここは映画的な場面と言われるが、まったく映画的ではない」と論じていた(確か金井美恵子もこの場面を「映画的だ」と言っていた記憶がある)。
ああ、あのコピーももちろん捨てちゃったよな(あ、でも同じ頃に図書館でコピーした『風流夢譚』はまだ持ってる)。なんだか久々に読み直してみたい。というか、どういう理屈で映画的じゃないって言ってたんだっけかな。気になる。


あともう一箇所。
注釈の中で『アーダ』という小説の描写に触れている。

ずんぐりした指が「ピンク色のキノコみたいに生えている」という比喩表現がある(……)この表現が、最後の段落で「切り株にしがみついて鼾をかいているピンク色のキノコ」と文字どおりの実体となって出現するのは、手品のようにあざやかな変身ぶりではないか。

うわあ! これって、ナボコフ自身が『ニコライ・ゴーゴリ』という評論の中で、ゴーゴリの小説の特徴としてあげていることじゃない? ……と思ったけど、いま本棚から引っ張り出したら、微妙に違う。でも、久々に読む『ニコライ・ゴーゴリ』はやっぱり面白い!
以下に引用するのは、ナボコフなりの『死せる魂』の読み。比喩表現が、存在を生み出してしまう例。

黒い燕尾服があちこちに、塊ったり離れ離れになったりして、ちらちらしながら飛び回っているわまは、ちょうど夏も七月の暑い日盛りに真白く輝く精製糖の上を飛び回る蝿そっくりで、この精製糖を開け放った窓の前で打ち砕きキラキラする破片にしているのは年とった女中頭[待ってました]だが、周りに詰めかけた子供たち[今や二代目の登場!]は槌を振り上げる彼女のごつい手の動きを面白そうに見守っており、いっぽう軽い空気に乗った蝿の空軍[ゴーゴリの文体にとってあまりに根深いため、長年に亘る一行一行の推敲もこれを根絶しえないような反復のひとつ]部隊はまるで屋敷の主人のように[直訳すれば「完き主人」イザベル・F・ハップグードはクローウェル版でこれを「太った女房」と誤訳している]遠慮会釈もなく飛び込んできて、老婆の視力の鈍いのと、太陽に目が眩んでいるのをいいことに、美味なかけらの上に或は離れ離れに、或はぎっしり塊って集り寄る。

引用部分の[]の中は、ナボコフによる突っ込み。
ゴーゴリの小説自体無茶苦茶楽しいんだけど、こういうのを読むとナボコフが本当に小説の手触りを楽しんで味わっているのがわかる。


こうやって、一冊の本を読み通すだけのつもりだったのに、いつのまにか机の上には何冊もの本が積み重なり、ウチにない本を求めて本屋に足が向いてしまう。