キョンシーマジックについて(7)〜八重子先生について私が知っている2、3のこと②〜

「男はね、すぐに『夢があれば貧乏だって耐えられる』とか言うんだけど」
八重子先生がしんみりと語る。
「あんたがいつも空腹で苦しまないでいられるのは、夢のおかげじゃなくて、私が食わせてあげてるからじゃない。いまのあたしだったら、はっきりそう言ってやるわ。『このごくつぶし!』ってね」
宮子は八重子先生が言っている内容については、まるで理解できなかった。
でも、八重子先生のしんみりとした語り口には、なぜか引き込まれた。
「でもそんなこと……18歳のあたしが言えるわけなかったわよ。だって、その年になるまで、父親以外の男の人と、口もきけなかったんだから」
そう言って、ちらりと芋子と宮子を見る。
「うらやましいの」
宮子はドキリとする。
「ひっこみ思案で、いつも本ばかり読んで……あの頃あたしが好きだったのは、そうね、山田詠美の『蝶々の纏足』なんて大好きだった」
宮子は八重子先生の告白に驚いていた。「私もです!」と言いたかった。言ったら、八重子先生は笑ってくれるだろうか。
一方芋子の頭の中では「『町長の遠足』? 大人も遠足に行くのかな」と疑問が渦巻いていたが、それはまた別の物語。
「あたしが初めて好きになった男は、一冊の小説だって読み切れないくらい根気のない男で、そのくせ村上龍はバカだ、俺はもっとすごい小説を書いてやるなんて言って、お金も稼げないのに困っている後輩にご飯おごったりして、その金あたしが稼いだじゃない!ってあたしは言えなくて……つまりね、とても幸せだったのよ」
「意味わかんね」。ぼそりと芋子が言う。
「そうね。あたしにも、意味なんてわからない……他人の話だったら。自分の恋だから、意味なんて求めなかったの」
「……」
「だから、きっとわからないと思うけど……いつもぼさぼさの寝癖だらけの頭をしていた彼が、珍しく床屋に行ってさっぱりした髪型で帰ってきたとき、あたしはなんだか裏切られたような気持ちになったの。
『俺、八重子に苦労ばっかりかけたから、これから真面目に働こうと思うんだ』
違うじゃない。あんたが馬鹿だから、あたしはいい女でいられるのに、あんたがいい男になったら、あたしはまたつまらない女になってしまうじゃない。
なんて、言えなかったけどね。
あたしは黙って彼のために毎朝早く起きてお弁当を作るようになった。
そうしたら彼、『大変だろ。お前は、前みたいに、踊りに行ってもいいんだぜ』って言うの。
『あたし、踊れないじゃない。盛り場に行ってたのは、あんたを迎えに行くためだけじゃない』
『そうか、けっこう楽しそうだったじゃないか。一人でも楽しんでこいよ。そうだ、今度は俺がお前に小遣いやるよ』
やさしい人。
あたしは愚かにも、そう思ってうっとりしちゃったの。
でも、もっと早く気づくべきだった。
彼は意気地なしだったの。
別れ話を告げる勇気がなかったから、あたしが彼に失望してくれるのを待ってたのよ。
あたしは、彼があんまり勧めるもんだから、彼の顔を立てなくちゃと思って、一人で夜遊びをするようになった」
宮子は手のひらがじっとりと汗ばむのを感じた。
「それでね、あたし、別の恋をしてしまったの」
「そんな!」
八重子先生が、宮子の頭をなでる。
「ごめんなさい。びっくりするわよね。
あたしも驚いた。
それでね、いつのまにかあたし、彼のことをつまらない男だと思うようになっちゃったの。いつか小説家になるんだって言ってたのに、いまではネジ工場に勤めるしがない工員。一方、あたしをちやほやしてくれる男たちは新進気鋭の映画プロデューサーや俳優たち。
彼の思惑通りだったのよ。
あたし、黙ってアパートを出ていった」
「それで……彼氏さんはどうなったんですか?」
「……パーティーの日々って、必ず終わる。数年後のこと。気づいたら、あたしの周りから男たちは消えてしまっていた。あたし、なんだか狐にばかされたみたいな気持ちになって、ふらふらと本屋に入った。なんでだろう。なにかに導かれたのね。
そこで一冊の文芸誌を手にした。
その表紙には、彼の名前があった。
彼はあたしがそばにいると、甘えてしまう自分がいることに気づいて、本当に小説家になるためにはあたしと別れないといけないって思ったのね。だけど、自分からは言い出せなくて……あんなこと言ったのよ。
あたし、本気であいつのこと、憎くなって……新人賞をとった夜には二人きりでお祝いしようって約束したのに……それで絶対に会ってやろうって思って……」
「それで、それで、その彼氏さんが、千葉島にいることがわかったんですね!」
宮子が身を乗り出して目を輝かせる。
「違うの」
「え、じゃあ……」
「違うのよ、このお馬鹿さん」
「……」
ゾッとした。
それまで優しかった八重子先生の顔が豹変し、名状しがたい歪んだ表情になった。
「あたしが喋ったのは、全部いま思いついた嘘! 真っ赤な嘘よ!」
八重子先生が激しく笑い出した。
「ケケケケケケ!」
宮子には本当にそう聞こえた。
怖い。
怖い。
この人、まるで妖怪のようだ。
「子供からかうのって、楽しいわねえ」
そのとき、保健室の扉が開いて、深町先生が入ってきた。
深町先生はジャージの股間を手で押さえている。
「八重子先生、息子がまるでおさまる気配がないんだ。逆バイアグラないかな」
「逆バイアグラってなによ」
「いい女ってことだよ」
「あたしのこと?」
「まいったな、ガハハハハハハ」
芋子が宮子の手をとった。
「え」
「逃げるぞ」
二人の背後から、妖怪の声が響く。
大人なんかになりたくない。
宮子は息を切らせながらそう思った。それを自分への誓いにした。
まさか神様が本当にそれをかなえてくれるとは思ってもみなかったのだが……。
(つづく)