キョンシーマジックについて(9)

芋子がみんなの人気者になるなんて……。
本当だったら喜ぶべきことなのだと宮子もわかっている。
でも……「これでみんな僕のいいなりだよ」と口元を歪めていやらしい笑みを浮かべた芋子の表情を思い返すと、宮子は暗い気持ちになってしまうのだった。
人を文字通り蹴落として人気を得た芋子。
それを非難する宮子に、芋子は言い放った。
「見下されながら生きていくっていうのがどんだけきついか……ホンシュウモノの宮子にはわからないだろうな」
ショックだった。
初めて芋子が宮子のことを「ホンシュウモノ」と呼んだ。
宮子は一体どうしてこんなことになってしまったのか、混乱の中でなんとか振り返ろうとした。


川沿いの掘っ建て小屋に、どこから流れてついたのか誰にもわからない謎の老婆が住み始めたのは、春の終わりの頃だった。
「騙された……騙されたよ……あたしの百億円が騙し取られたよ」
その老婆はいつもそうつぶやきながら、町の集会所のまわりをうろついていた。その集会所は、町内会の寄り合いのためのもので、週末には若い衆たちが酒を持ち寄って宴会を開く場所になっていた。
老婆はなにを勘違いしているのか、その集会所に入ろうとする者を見つけると、「あんた、折伏されるよ! それともあんたが折伏するのか!」と叫びながらつかみかかってくるのだった。
老婆の名前は、信濃町子といった。
いつしか町では「シナチョウ」と呼ばれるようになっていた。


「芋子、お前の言ってる『キョンシーマジック』とかで、シナチョウを追い出すことできないのかよ」
サッカー好きの大熊君がある日、芋子に声をかけてきた。
その数日前に、大熊君はシナチョウに追いかけられたのだった。なんでも、「ダイなんとか」っていう詐欺師の親戚だと思われたらしい。
「できるよ」
芋子は即答した。
「ただし……みんなの協力が必要なんだけどね」
大熊君の取り巻きの子たちが「それみたことか」というような笑いをあげる。
「お前に協力するやつなんて、いるわけがないだろう」
芋子は黙って大熊君をにらみ返す。が、すぐに目をそらした。宮子はそれをハラハラしながら見つめる。また芋子がみんなにリンチされるんじゃないか。
以前、こんなイジメがあった。クラスで一番の美少女ともてはやされている早智子と芋子を大熊君が掃除のロッカーに閉じこめて、大勢の男子がロッカーにガンガン蹴りを入れて、「エロいな、芋子!」とはやしたてた。
芋子も被害者だ。
それなのに。
早智子は大熊君たちのグループとは仲良くなって、一緒に学校の帰りにゲームセンターに寄ったりするようになった一方で、芋子とは目も合わせようとしなくなった。それどころか、一度など「芋子君って……なんか変な臭いがする」と通りがかった芋子に消臭スプレーをかけたりもするのだった。
「『キョンシーマジック』は、確かに一人じゃできないけど……まあ、僕もシナチョウは気味が悪いからね。なんとかやってみるよ」
宮子は、なんとなく『キョンシーマジック』には関わりたくないと思っていたから、芋子を心配しながらもあえてその話題には触れようとしなかった。


それから数日後。
宮子が父親の工場にふらりと寄ったときのことだ。
父親には工場には来るな、と言われている。なにを作っている工場なのか、父親は教えてくれない。「危険だから」と二言目には言い、仕事のことはいっさい教えてくれない父。
それなのに宮子は、工場に来てしまった。
自分から意識して芋子に距離をおいた数日だった。だから、つい「私はここでいつまでも余所者なのかしら」などと考え込んでしまったのだった。「私が私自身であることで、みんなが喜ぶようなことっていうのはあるのかしら」。
まるでこの宇宙で独りぼっちみたいだ……。
そういえば、父親もこの数日家に帰ってきていない。仕事で忙しいのだろう。よくあることだ。
それでも、宮子は工場に足を向けずにはいられなかった。
工場の近くまで来たとき、宮子は意外な光景を目にした。
魚のような顔をした工員が向こうから歩いてくる。その工員を、宮子は以前も見かけたことがある。宮子の家のそばで、父に怒鳴られていた。「こっちのほうへは顔を出すなと言ってあるだろう!」と父親は激昂していたが、その魚顔の工員がぺこぺこと頭を下げながら、なにかを父親に差し出すと、父親は急に青ざめてしまい、ヒソヒソとその工員となにかを話しながら、車に乗り込んでどこかに走り去ってしまった。
父親とその工員が寄り添っているのを見たとき、宮子はわけもわからず父親への反発心を抱いた。
そして今。その魚顔の工員のそばに走ってきたのは……芋子だ。
そして芋子は魚顔の工員に向かって、こう呼びかけた。
「父さん」
宮子はドキリとした。全然似ていない親子だ……。いや、そんなことより……宮子は自分自身に対してすら正直に思いを認めることができなかった。宮子はその夜の日記に、一度はその工員のことを「気味が悪い」と評したが、すぐに消しゴムでそれを消した。「知らない人のことを、悪く思ってしまってはいけない」。そう自分に言い聞かせる宮子だったが、宮子の偽らざる印象を一言で表せば「化け物」ということになるだろう。
その夜、海のほうからなま暖かい風が吹いていた。
そして、その風はいつもよりもずっと生臭く、魚のような臭いがした。その臭いは、次第に強くなっていく。窓はきちんと閉めているのに。
宮子は気になって、窓辺へ近づいた。
二階の窓から見下ろした真っ暗な道を、大勢の人が歩いている。だが様子がおかしい。歩き方が変だ。体全体を左右に大きく振っている。中にはそれが面倒だと言わんばかりに、ぴょんぴょんと跳びはねている者もいる。まるでカエルのようだ。そして何よりも奇妙なのは、みんな頭からすっぽり袋をかぶっていることだった。
宮子は体をこわばらせながら、その奇妙な行列をじっと見つめていた。
が、一人の男と目があって慌ててカーテンの隙間を閉め、ベッドの布団の中に潜り込んだ。いま見たことすべてが夢であって欲しいと願いながら。
魚顔の工員だった。
(つづく)