『フレディvsジェイソン』と『キル・ビル』

狙ったわけではないが、奇しくもマニエリスムに満ちた二本をはしごしてしまった。
フレディとジェイソンのどちらが好きかと問われれば、「いや、別にどっちも……」と答えてしまう俺は、レザー・フェイスとブギーマンが好きで、それは70年代がリアルタイムだからではなく、自分が一番多感な時期であった80年代には、「70年代は本格的だったよねえ」という言説が神話的に作用したからだ。だから、好きな映画を問われたりすると、思わず『ファントム・オブ・パラダイス』などと答えてしまうのも、宝島的価値観が根付いているからだ。
ま、そんなことはどうでもいい。『フレ・ジェイ』でまず素晴らしいと思ったのは、クリスタルレイクで泳ぐ女が「無駄に」脱ぐ冒頭場面だ。脱いで、泳いで、また服を着て、その展開は物語には一切貢献しない! これこそ80's!……?
でも、全編そんな感じ。見てて途中で気づいたよ。「あ、これってマッチポンプムービーだ」って。いや、いま思いついたジャンルだけど。なんか馬鹿な連中が、「お前らに任せてられない!」とか言ってでしゃばった結果、自分で悪魔を復活させといて、「大変だ! 悪魔を復活させた!」とか言ってる感じ。それが許されるのは、「フレディとジェイソンの対決を見たいけど、まあそこになんか因縁があればもうちっと盛り上がるよね」という程度の理由で物語がでっち上げられてるから。
個人的には、どんくさくって無口なジェイソンを応援していました。
キル・ビル』は……傑作だと思います。もしもVシネの棚で見つけていたら、ですが。俺は、特に教養があるわけではないから、この映画の元ネタをいちいち指摘したりするような見方はできない。それが監督の狙いなんだから、それがわからなくちゃ面白くない、なんて主張には与しない。現代映画が失ってしまったのは、つまりケレン味、でしょ? それが70年代の日本映画や香港映画やマカロニ・ウェスタンにはあった。で、問題はそれを「再発見」したあとの態度だ。それを「キッチュ」だとか「モンド」だとかいって喜ぶのは、なんだか退嬰的だ。そういう見方でしか、そういうケレンを蘇らせられないとしたら、片手落ちじゃないか? かつての映画たちはそういう見せ方をすることで、とんでもなくエモーショナルだったはずだ。たとえば、ペキンパーのスローモーションは、ケレンでありエモーションだった。で、それを現代においてやっているジョン・ウーも、エモーションを大事にしようとしている。
キル・ビル』を「好きだ」と思う一方で、でも「傑作!」と断言できない理由はそこにある。だって……エモーションを捨てずにやろうとしている三池崇史が日本にはいるじゃない。すぐ身近のビデオ屋に無数にある三池崇史が一部マニアのものになっていて、(勘違いとはいえ)タランティーノが一般の客にまで支持されている状況というのは、なんというか、不幸だ。本当はどちらも肯定したいのに……。ああ、誰か真に啓蒙的な批評家という損な役回りを買って出てくれないものだろうか!