『ゲアトルーズ』

なんか最近、映画が始まると気持ちよくなってウトウトしてしまう。でも仕方ない。人物たちはただ延々と「愛」について議論してるばかりなんだもん。あ、いや、ウトウトするのはこの映画に限らないが。<ってなんだ、俺、言い訳するな!
すごい過激な映画だった。映画の後半、ゲアトルーズが幸福だったある日を回想する場面、それまでの静的で沈鬱に見えた彼女が生き生きと部屋を縦横無尽に動き回る場面、まるで奇跡のように美しいけれど、まさにその動きこそが彼女に「男の愛に対する根源的な裏切り」を発見させてしまう。「女の愛と男の仕事とは相反する」というような内容のメモを発見させるのは、彼女のその生き生きとした動きだ。思えば、人物たちは、語られるのみで描かれない画面外の動き(オペラを観にいったり、パーティーに出かけたり)によって、「愛の裏切り」(妻が自分に嘘をついていた、かつての恋人がろくでもない若者によって愚弄されている)を知ってしまう。まるで登場人物たちは、できるだけ動き回らずに、「愛」の到来を待ち受けているみたいだ。そうそうそれから、みんなゲアトルーズの考える「愛」と衝突してしまうのな。誰も、彼女の意見に与することで、彼女を慰めたりしない。登場人物たちは誰もが誰に対しても対立している、ように見える。なんだかこの映画の中では、人は世界(人も物も含む)と和解できずにいるみたいだ。
結局、ゲアトルーズは夫のもとを出奔して、孤独な生を送ることになる。それでも彼女は「愛こそがすべて」、その一言を墓石に刻んで欲しいと言う。一体、誰にも理解してもらえなかった自分の「愛」を、どうして彼女は信じられるのだろう?
そう不審に思っていると、ラスト、どこからか教会の鐘の音が聞こえてくる。ゲアトルーズが閉じたドアだけが残る画面にかぶさって……。あれは「恩寵の鐘の音」、なのだろうか?