こんな人生がある

すべてのニュースには、「これって驚くようなことでしょ」というメタメッセージが含まれているけれど、このニュースには心底びっくりしました.
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040124-00000315-yom-soci
43年間、「世間」から隔絶していた生活というのは……我々の日常とは別の論理が働いているというだけで、それはそれで「日常」なのだろう。
「外部」は、実はこんなところにもある。ただ、目に見えなかったり、聞こえなかったりするだけだ。これは、「現在の問題」などからは遠く離れている。こういう「問題」に接すると、普段接している「問題」の多くがどれだけ同語反復的であるかを感じることができる。つまり、あらかじめ問題として前景化されることがわかることしか問題にはできない、ということ。
別の言い方をすると、んー、この男性の問題は、「現代日本の問題」などにはからとられず、「これ」としか言いようのない状態のまま宙吊りにされる……かな?
「このもの」性の強度? 人はただ茫然自失するほかに、態度を決めることができないようなニュース。これこそ、ニュースだろう。
ではフィクションにこういう強度を持たせることは、どうしたら可能なのだろう?