『1980』と『ワラッテイイトモ、』

ともさかりえを可愛いと思えるかどうか? いや、たぶん可愛くはないんだろう。それでも思わず、見入ってしまうのは、本当に可愛くないのか?という興味がつきないからなんじゃないか?
というのはうがちすぎ?
でも実際、誰が支持しているのだろう? ずっとそんなこと考えていたら、『1980』は終わっていた。
が、確かに積極的な支持がなくとも、気にかかる、つーか気づかないうちにトリコじかけにさせられてしまっているようなヒトというのはいるもので、それは他ならぬタモリだ。
いつでもそこにいる。
なにも主張しない風景のような存在だ。毎日通勤する途中にある、見慣れた地蔵のようなもの。その地蔵に用事はない。ただ、毎日、そこの角をまがる。
が、あるとき、友人知人の誰もが、その角を曲がるという事実に驚く。みんな、会社も趣味も生活も、バラバラのはずなのに。みんながそのことでふと立ち止まって、話してみようと思う。
おや? その地蔵が話題にのぼっている……。
それはどういうことなのか? 誰も興味があるわけではないのに、なぜかその話はだらだらと続いてしまう。
そうか。なら一度、あの地蔵についてテッテ的に調べてみよう。
が、それは非常に労力のいることだ。
だって、興味のないことにエネルギー注ぎ込むのって大変じゃん。
つまり、映画を作るというのは大変な労働なんだ、ということを『ワラッテイイトモ、』は教えてくれる。
そして、退屈な労働の果てに、いや、労働の過程に、なにか素晴らしい発見があるということも教えてくれる。そこにしかない。すばらしいものを作ろうという出発点からは、きっと大したものは生まれない。
だって素晴らしい戦場なんてイヤじゃないか。などと言ってみるか。
非常に教育的な映画だと思いました。