『コールド・マウンテン』と『悪い男』

映画は人をびっくりさせるためにある。登場人物がいきなり死んでびっくりすることもあるし、見たことのないような風景を見せられてびっくりすることもあるし、びっくりするほど退屈なこともある。
さて、『コールド・マウンテン』。アメリカの南北戦争時代が舞台。一組の男女が戦争の直前に出会い、離れ離れになることでひかれあう。見つかれば厳罰に処せられることを覚悟の上で、ジュード・ロウは脱走兵となり、遠い故郷・コールド・マウンテンを目指す。一方、突然の父親の死によって生活が困窮するニコール・キッドマンは、実際家のレニー・ゼルウィガーとともに新たな人生を模索し始める。ジュード・ロウニコール・キッドマンも、それぞれに死を間近に感じ、やがて訪れるべき二人の生活を夢見て必死に生き抜こうとする。
死はいたるところにあり、思いがけないときに身近な人が死ぬ。それを主人公たちが(愕然としながらも)受け入れ、同時に観客もそれを悲しみをもって受け入れる。そしてそれは、驚きの少ないラストの死へといたる道のりとなる。もはや、死は驚くべき事態ではなくなってしまう。
これはびっくりさせない映画なのだろうか? だが、ラスト、それまで「不在」として描かれてきた死が、あるものの「存在」として描かれる。それは当たり前のことなのだけれど、唐突な「転調」であるようにも感じ、きっとそこにこの映画の驚きはあるのだろう。
で、一方の『悪い男』。これはびっくりすることの連続だ。それはきっと観ればわかる。だから観て欲しい。ほんとにほんと、同情も憐憫も感情移入も許さない「悪い男」が、一人の女の人生を踏みにじる、そんな映画。どうしてこんな映画が作られたんだ、とびっくりする。そして、間違いなくこの映画は素晴らしい。この世界が不幸に満ちていることを嘆くのではなく、不条理なまでの特殊な(絶対に普遍化できないような)不幸を描くことで、この世界が「ある」ことが「聖」であることを突きつけてくる。
この映画を観たら、すぐにこの映画のことは忘れるべきだ。絶対に、「あそこで描かれた世界は……」などと言ってはいけない。ただ観てしまったという体験が、観客を変える……そんなことを狙っている大胆な映画。びっくりする。