『ビッグ・フィッシュ』

見当違いかも知れないけれど、『はてしない物語』を思い浮かべたな。ほら話の聞き手が、語り手へと転じるところに感動があるという意味でね。
ユアン・マクレガーの未来の奥さんが、戦死通知を受け取る画面に感動。なにげないカットなんだよな。家を真正面からとらえたショットの中に若い女性が立っていて、そこに一台の車が到着して、郵便配達夫が手紙を手渡す。そして手紙を目にした彼女が泣き崩れる。それがフィックスの画面の中ですべて描かれる。
こったカメラワークというのは、非常に段取りが面倒だ。ワンカットにかかる労力が半端じゃない。ときにはCGまで駆使する。つまり金がかかる。じゃあ、どうしてそんなことするのかと言ったら、観客を驚かせたいから。現実の視覚と違って、絵画や写真や映画にはフレームがあって、観客には隠されている部分がある。絵画や写真の場合には、それは観客の想像にゆだねられるけれど、映画の場合にはそれを見せることができる。だから、「空白の画面」というのも成立する。つまり、その画面自体には大した情報が含まれていないが、まもなく出現するであろう画面への期待を観客に抱かせる、という画面。こったカメラワークで観客を驚かせるというのは、この期待の効果を複雑にするということ。
ビッグ・フィッシュ』は、そういう「コストの高い画面」をなるべく使わずに、最大限の効果をあげようとしている。単純な画面こそ感動的なんだ。
その最たるものは、アルバート・フィニーの、「耳を傾ける顔」だ。これは是非、映画館で味わって欲しいな。大きなスクリーンに映し出される、大きな顔。これだけで感動できるということを体感して欲しい。大袈裟な演技や、大仰なカメラワークなど必要ない。ただ、「ほら、これを見て」という単純な仕草こそが映画なんだと教えられたような気がしました。
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