『ヒミズ』(Oi-SCALE)@ラフォーレミュージアム原宿

原作を知っているからなのか、テンポのよい芝居に感じられた。ダイジェスト? そうかも知れない。マンガをすでに読んでいる観客にとっては、色々と喚起されるところが多かったのではないかと思う。特に、主人公・住田を演じる村田充のたたずまいは、原作の雰囲気をきちんと伝えていたように感じられた。
主人公の住田という少年は、「普通」に生きることを強調する。それはとりもなおさず彼が「普通」に生きられないことを自覚しているからにほかならない(と書いて、ふと大西巨人の『神聖喜劇』にそういうくだりがあったことを思い出す)。日常に倦んだ主人公がそこから脱出するために、それを阻もうとする「敵」を見出して殺す、という物語ではない。他人に理解・共感されることを求めないアンチ・ヒーロー、それが住田だ。
だから、住田が父親を殺すのは、本人の意志とは無関係だ。極端に言えば、そういうふうにプログラムされてしまった自分から逃れようとあがく住田の悲劇を描くのが『ヒミズ』という物語だ。平凡な幸福を同様に望むけれど、恐らくそれ以外の未来を思い描けないだろう茶沢という女の子とのあいだには、超えがたい溝がある。住田が「誰にも迷惑をかけないような人生」というふうに抽象的にしか「普通の未来」が思い描けないのと対照的に、茶沢の想像する「普通の未来」はひどく具体的だ。人は具体的にしか生きられないから、茶沢は警察に住田の父殺しを通報するが、住田にとってはそれはどこまでも「空想的」でしかない。
さて、そういうふうに俺は『ヒミズ』という物語を読んだのだけれど、それを踏まえると舞台版の『ヒミズ』で印象的だったのは、住田の父親が自分を殺すための凶器であるバットを住田に渡す場面だ。住田が、望んだわけでもないのにそうプログラムされてしまった自分に直面させられてしまう場面。
それを受け入れたのちに、この「普通の」世界の中で自分自身の存在を肯定できる場所があるのかとさまようのが住田に残された生き方だ。
……しかし、これが舞台の『ヒミズ』の感想なのか、マンガの『ヒミズ』の感想なのか、それが曖昧でうまく評価できない。