批評だとか評論だとかについて

先日、「人生はサービストーク」(http://d.hatena.ne.jp/hibiky/20040708#p2)という記事に、俺がコメント欄で「サービストーク激しく同意です。ほんとそういう意味で僕は柳下さんと町山さんこそ蓮実さんの直系であると思うのですが貴兄はいかがお思いでしょうか」などと書いたところ、id:hibikyさんが丁寧に本文で返事を書いてくださりました。「真の映画ジャーナリズムとは??」(http://d.hatena.ne.jp/hibiky/20040708#p3)。


と、いうわけで、労には労で報いなければと思い立ち、たまには真面目に書いてみようかと思います。


批評だとか評論だとか、いや、そんな狭い世界だけではなくて、すべての表現活動は「地図」を作ることだと俺は考える。
それは、「複雑怪奇な世界を簡略化するため」の地図ではなくて、逆に「世界がいかに複雑怪奇で、それゆえに素敵なんだ」ということを教えてくれるような地図だ。


個人的なことを言えば、最初の映画雑誌が『宇宙船』と『V ZONE』であった俺にとって、「巨匠」と言えば円谷英二であり、トビー・フーパーであり、ジョン・カーペンターであった。
大学に入ったとき、先輩に「お前は本当に教養がないなぁ」と言われ、蓮実重彦を知った(あとから高校時代に読んだ『映画術-ヒッチコックトリュフォー』の訳者であったことを知る)。それは俺にとって貴重な体験だった。
例えば、それまでハワード・ホークスといえば、『遊星よりの物体X』の監督(クレジットは違うけど)というだけだった。ところが、騙されたと思って観た『僕は戦争花嫁』の異常なまでの面白さ!
単純なことですよね。世の中には、まだまだ自分の知らないことがたくさんあるんだ!という喜び。


宝の地図にワクワクできるのは、どうしてだろう? いまだ知られざることがそこに書かれているように見えるからじゃない?
蓮実重彦がやってみせたのは、誰もが知ったつもりになっている映画や、誰もが知らないような映画を、難解な言葉でグルグル包装することで、アラ不思議、なんだか謎めいた魅力的なものに仕立て直す、ということだったように、俺には思える。なんだかキラキラと謎めいていて、本を読みながら部屋から飛び出て、映画館へ行きたくなってしまう。それはマジックみたいなものだ。
対して、エピゴーネンたちのやってることにはどこにも謎なんかありはしない。はじめからタネが見えてしまっている。選ぶ映画も、語る言葉も、予想通り。「ああ、こんなことをやりたいのね」と。未知のことがなにも含まれていない。もうね、宝の地図でもなんでもない。ただの情報。
蓮実重彦の書く地図だって、行き着いてみたら、埋まってたお宝はそんなに大したことなかったってことあるよね。でも、その地図もってウロウロするのはすごく楽しかったりする。
それはつまり、サービス精神の有無ってことじゃない?


映画の本質って、マジックそのものだと思うんだ。
それまで知らなかった世界のある側面、愛について、感情について、未来について、動物について、宇宙について、人間について……「そんなのもありなんだ!」という驚きを与えてくれる。なんていえばいいんだろう、それは決して「真実」というわけじゃないんだよな。うーん、さっきも書いたように、「世界が複雑怪奇であることの素晴らしさ」なんだよ。もうね、矛盾だらけ。
ま、それは映画に限らないけどね。
そう、映画評論もそういうものであればいいと思うんだ。みんながそれぞれのオリジナルのマジックを使って、読者をまだ観ぬ映画へのひりひりした欲望で充たしてやれたら、素敵なんじゃないかな?


俺は柳下毅一郎町山智浩中原昌也加藤幹郎の書く文章を読むと、映画館へ行きたくなるし、新宿西口の輸入ビデオ屋に行きたくなるし、まだ観ぬ映画がこの世にたくさんあることを知って、もっともっと生きなくちゃ、と思えるんだ。


すでに行ったことのある場所のわかりきった地図ではなくて、未踏の地がこの世にまだまだあることを教えてくれるような地図を、俺は見たいし、読みたいし、聞きたいんだよね。
それをものすごい飛躍した言い方で言えば、「勇気を与える表現」だということになると、俺は思うんだ。


読み直したら、とっても青臭い。
でも、ま、今日の俺の体臭は、そんな感じです。