『ヴィレッジ』@新宿文化シネマ

意地悪なインド人、M・ナイト・シャマランが、たっぷりと皮肉をこめて描く「バカでアホな白人」の物語……というふうに見立ててみたんだけど、どうだろう?
これもネタバレを大きく含むので、隠しておきます。
映画の冒頭で、舞台が19世紀のとある村であることが示されるんだけど、このミスディレクションを本当らしくするためにか、村には黒人やアジア人の姿が見当たらない。
この配慮は、意図的でしょう。ある時期以降のアメリカ映画は、たぶんポリティカル・コレクトネスの影響で、多様な人種が主役級のキャラクターにあてられるようになった。えーと、つまり、人種問題をテーマにしていないような映画でも、ってこと。『ダーティー・ハリー』と『リーサル・ウェポン』では、そこが変化してるでしょ。
『ヴィレッジ』は、実は舞台が「現代」であることを重要なオチにしてラストまで伏せられているから、それが明らかにされるまでは、映し出されている風景や登場人物が「過去のある時代」を想起させなくてはならない。
ということで、画面に非白人が登場しないことは、正当化されるよね。


で、一番肝心なオチというのが、「犯罪によって身近な人を失った人々が、心の傷を癒すために、犯罪の起こり得ない理想郷を作ろうとした」っていうことなんだよ。
どうやら村のメンバーである長老たちは、巨額の資金を使って、広大な土地を私有化しているらしい。長老たちの中には、政界にコネがあるものもいるらしく、土地の上空を飛行機が通過することも禁止している。
そういう事情を、「村」で生まれた若いメンバーは知らされていない(森に怪物がいるから、と脅されて)。


この点で言ったら、それまで画面に非白人が登場していなかったのは、正当化されない。
だってさ、非白人の中にだって、犯罪で近親者を失った人はいるもんね。
つまり、これってさ、あそこは「非白人を犯罪者と考えている連中」の村だってことじゃない? 


このオチを、観客に教えるのが、非白人であるM・ナイト・シャマラン自身であるってことが、俺には面白かった。いや、この監督のでたがり癖はいつものことだけど、いつも以上の重要な役どころだと思ったよ、今回は。
外部の人間が立ち入らないように管理をしているシャマランは、どこか皮肉な表情を見せながら、自らの職務をまっとうしようとしている。まるで、「あいつらは、他者と対話をすることで忍耐強く世の中をよくしようと考えるよりも、同質性の高いコミュニティーを作って、そこで外界に目をつぶって生きていこうとしている。バカな白人たちだ」と考えているかのようだ。


うがった見方かな? たぶんね。でも、まあ、俺はそう感じたんだ。だから、この映画、実は「愛」なんて描いていなくて、「退廃」を主題にしている映画だと、俺は思うね。