『スウィングガールズ』@新宿スカラ

「平凡な女子高生」を主人公に据えることで得られたメリットはなんだったんだろうと、クライマックスでの演奏場面に感動しながら考えてしまった。
なにしろ、昨日まで楽器に触れたこともない「平凡な女子高生」たちが、ビッグバンドを組むという話なのだから、彼女たちがいかにしてビッグバンドと出会ったのか、いかにしてやる気をおこしたのか、いかにして楽器を扱えるようになったのか、いかにしてビッグバンドの「魂」を獲得したのか……という諸問題をクリアにしなくてはならない。それって、だけど、面白いのか?という問題がある。映画の中で主人公が楽器を演奏したり歌ったりすると、それだけでワクワクしてしまう。だったら、最初っからそういう場面があった方が映画としてはよくなくない? つまり、「天才がライバルの出現によって挫折するが、ただならぬ努力によって再び表舞台に返り咲く」というプロットの方が、たぶん『スウィングガールズ』よりは、演奏場面という「見せ場」をふんだんに盛り込める。
でも、『スウィングガールズ』は、そういう戦略はとらなかった。なんでだろう?
たとえば『ドラゴンボール』のような見せ場のインフレを恐れたのかな? ああ、『マトリックス』なんてその典型だったなぁ。女子高生のビッグバンドなんて、どう頑張っても大した見せ場を発明できそうもないから、インフレなんてすぐに起こりそうだ。いい演奏を見せれば、観客は「もっともっと」とねだるに決まっている。
だから、これは正解なんだろう。延々と続く退屈な場面の果てに、一球入魂の見せ場が炸裂する。キャラクターたちのソロを(楽器を演奏しない竹中直人も含めて)きちんとフォローする演出には、素直に感動できる。彼らのほこらしげな表情に、観客もまた「報われた」という思いを味わえる。


だけど、なにが「報われた」のだろう? だって、この映画には「努力」の泥臭さはない。挫折も屈託もない。その上、実は「平凡」ですらないかもしれない。河原で上野樹里が一人サックスを吹く場面、せいぜい10日ぐらいしか経験のない彼女が、平岡祐太のピアノに即興で合わせられちゃうんだから。


ところで俺としては、主役の上野樹里よりも、トロンボーン本仮屋ユイカに萌え萌えだった。俺はやっぱり眼鏡が好きなんだな。それに加えて、普段は「お前はおとなしくしてればいいから」と周囲に言われて自己主張しない彼女が、肺活量では誰よりも主張してしまう、というキャラ設定に、ツボをおされまくってしまった。つまり、眼鏡でおとなしくて、だけど肉体は主張してしまう!そんな女の子。