『アメリカの影』にまつわるちょっとした話

高校生のときに作った8ミリ映画、今は存在しない。友人に預けていたら、引越しのときに紛失してしまったと言われた。ぎゃふん。
という話を先日知人にしたら、「でも、『アメリカの影』のファーストバージョンも地下鉄で見つかったしね」と言われた。そんな話知らなかったので、ネットで調べてみた。


すごいことになってた。


http://people.bu.edu/rcarney/shadows/chasing.shtml


以下は俺なりの要約。
Ray Carneyというおっさんは、ジョン・カサヴェテスの研究者だそうだ。で、何年も何年も『アメリカの影』のファーストバージョンを探していた。
ファーストバージョン?


アメリカの影』、最初に編集したバージョンはあんまり評判がよくなくて、再撮影の後に再編集されて現行のバージョンに落ち着いた。でも、ジョナス・メカスなんかは「最初の方がよかったんじゃないの?」なんて言ってた。Rayは生前のカサヴェテスに「最初のやつ、ないの?」って尋ねたら、「ないね」という答え。最初の上映のときに16ミリのプリントを一本焼いたきりだったという。当然、ネガは再編集の際に使われているから、16ミリのプリントからデュープネガを起こしていなければ、ファーストバージョンのネガは存在しない。当時、お金のなかったカサヴェテスにデュープを作る余裕なんてあったわけがない。つまりこの世に一本きりだってことだ。メカスが一度カサヴェテスに聞いた際には、「中西部の学校に寄贈した」と言っていたそうだ。


これを頼りに、Rayの探求は始まる。中西部の大学に片っ端からあたり、それが駄目だとわかると、あちこちの映画学科やフィルムアーカイブに手紙を書き、「そちらに『アメリカの影』(Shadows)って映画、ない?」と聞きまわる。だけど、どこの担当者も中身までは確認してくれないから、「あるよ」という答えが返ってきても、結局は現行のバージョンだとあとから判明する。ま、当たり前だ。インターネットでサイトを開設してからは、そこでも情報を求めた。
なんの手がかりもないまま、十数年が過ぎていった。半ばあきらめムードのRayは、仕方なくファーストバージョンを観たことのある人の証言を集めたり、現行のバージョンを丹念にチェックして衣裳や髪形の違いなどからどこが再撮部分かを探ったりして、幻の輪郭をなんとか描こうと試みたりしていた。


さて、数年前のある日、Rayは友人からある情報を得る。ファーストバージョンを持っている女性がいる、と。その女性によると、彼女の死んだ父親が、昔それを手に入れたのだと言う。詳しく聞いてみると、次のような事情があったそうだ。
彼女の父親は、どうやら日本でいう「骨董蚤の市」みたいなところで買い物をするのが趣味だったそうだ。あるとき、ニューヨーク市営地下鉄の、遺失物放出セールに出向いた。傘とか手袋に混じって、そのフィルム缶はあった。彼女の父親は中身も確かめずにそれを購入した。どんなお宝かは開けてみてのお楽しみだ。しかし、その中身は彼の興味を引くものではなかった。家族にはよく冗談半分に「ポルノだったらよかったのに」と言っていたそうだ。
その缶に記されたタイトルが『アメリカの影』(Shadows)だったのだ。
本当なのか? しかし、確かめることは出来なかった。その女性も、それを見たのは子どものときで、父親の死後、その持ち物は全米に散らばる親戚に行き渡ってしまっていたから。Rayはがっかりして、それでも彼女に、なんとか親戚に手紙を書いてくれと頼む。


そして、ある日、Rayのもとに一つのフェデックス便が届く。中身はフィルム缶だった。中身を確かめると……上映するまでもなかった。はじめの数コマを光にかざしただけで、そこにはこれまで何百回も観てきた『アメリカの影』の冒頭とはまるで異なる光景が映っているのがわかった。


ここで話が終われば、一本の幻のフィルムを巡る、ちょっとした奇跡の物語であり、いい話だと思う。
だが、Rayの困難は、ここから始まる。


カサヴェテスの未亡人であるジーナ・ローランズに、この発見のことを伝えると、返ってきたのは意外な反応だった。
カサヴェテスのフィルモグラフィーに『アメリカの影』のファーストバージョンなど存在しない。Rayの見つけたフィルムは、存在すべきフィルムではない。
ええ!!ってなもんだよな。
更にローランズは、Rayに対して、そのフィルムのいかなる上映もソフト化も認めない、というお達しを出した。
もちろん、法的には、ローランズにそんな権利はない。しかし、一介の映画研究者と、ハリウッドのセレブとの間に、力の差があるのは歴然としている。ローランズが「法的な措置も辞さない」と言えば、それは巨額の弁護料を出して、自分に都合のいい有能な弁護士を雇うことを意味するし、それに対抗できる財力などRayにはない(O.J.シンプソン!)。映画祭のディレクターや、フィルムアーカイブの知人に相談しても、「確かに君の発見は素晴らしい。しかし、ローランズに嫌われたら、今後カサヴェテスの上映に協力してもらえないかもしれない。悪いけどやっかいにまきこまないでくれ」という予想通りの反応。
ローランズによる妨害は、Rayの具体的な仕事にも影響を及ぼし始める。クライテリオン社から発売されるカサヴェテスのボックスセットの監修をRayはしていた。そのために何ヶ月も、プリントの選定をしたり、ブックレットの編集をしたり、オーディオコメンタリーを録音したり、収録されるドキュメンタリーを決めたり……走り回っていたのだ。だが、発売の直前になって、クライテリオンの社長からメールが届く。「ローランズが言うには、君はカサヴェテスの意向に対して敬意を払っていない。だから、コメンタリーもブックレットも収録するな、と」。そして、その通りになったってことだ。


さて、これはどうしたもんだろう?
世紀の発見、とまではいかずとも、すごい発見があったことを、すでに俺らは知ってしまった。だが、それが俺らの目に触れる機会が、一人の未亡人の独断によって失われてしまっている。それは正当なことなのだろうか?


難しいよな。
例えば、数年前、ちくまから深沢七郎の全集が出版されたけど、案の定、『風流夢譚』は収録されなかった。深沢自身の意志を、遺族(養子の人だね)が汲んで認めないってことだった。


もちろん、発見されたファーストバージョンは、やっぱりつまらない作品かもしれない。それでも、『アメリカの影』へと至る「ワーク・イン・プログレス」として、カサヴェテスの思考をたどるよすがにはなるかもしれない。
ああ、そんなことを知りたがるのは、本当にごく一部の映画マニアでしかないだろう。作家本人だって、ノートや失敗作を見られるのは嫌だろう。
だけど、限定的であったとはいえ、『アメリカの影』のファーストバージョンは公開された作品だ。その存在を抹消するという権利は、誰にもないと俺は思うのだが……どう?