タイのSへ(ほとんど私信。そして俺の理想)

Sの言うことはもっともだと思います。俺よりも、実務としてアホな連中に関わってきた経験上、俺の言い分が「子どもじみた部外者の言い分」に見えることでしょう。


ただ、俺が言いたかったことは、誰かがひどく愚かであったとして、その行為の結果その誰かが危険に巻き込まれたときに、「自業自得だ」と言って平気で切り捨てるような感性に、俺は与したくないということです。


極論を言いましょう。
目の前で、殺したいほど憎い敵がいたとして、そいつが事故やらなにやらで死に瀕しているとして、そのときに「敵だから」という理由で見殺しにするのは、嫌だ、ということです。
人の命が問題になっているときに、その命を別の価値体系によって秤にかけて、「助ける」「助けない」を決めるようなやり方は、拒否したいと思うのです。


あ、そうか。俺は「命はなによりも尊重される」という価値観を信じたいのかもしれません。某所では揶揄されるだろうな、と暗澹とします。


「あんた本当に現実を知らないよ」と言われることでしょう。
自分でもそう思います。
それでも、思うのです。「テロに屈しない」という言葉に含まれる、大きなハードルを、どうすれば越えられるのだろうか、と。
「殺されるかもしれない未来の人々の命」のために、「目の前の殺されつつある人の命」を見捨ててもいいのだろうか、と。
「崇高なる理想の実現のためには、一人の金貸しの老婆の命を奪うことは正当化されるんだ」というラスコーリニコフの観念論は、そうそう簡単に克服できることではないと思います。
いま、自分たちが直面していることは、そういう恐ろしい問題なのではないでしょうか?


ああ、普段飲んだくれてばかりいて、ネットでバカなネタを見つけて喜んでいるだけの俺が、こんなことを言うのは、自分でもあきれるばかりです。「思考する」という作業から遠く離れてしまった自分には、いま上記のように「直感」で語るしかありません。
これを機に、もうすこし「思考する」ことに慣れてみようと思います。