「労苦の終わり」チェルフィッチュ@STスポット

今更感想文。観たのは、11月3日の初回。


どうやら「イマイズミ君」は2年以上にわたってふたまたをかけていたようなのだが、結婚を機に一方の女性との関係を解消しようとしているらしい。そして、相手の女性(キャラクター名、失念)は別の女性と部屋をシェアしているのだが、やはり結婚のためにその関係を解消しようとしている。そのような「労苦」の結果、一組の男女がこれから「結婚」という関係を築き上げていくのだが、結婚はしているものの妻と別居関係にあるとあるキャラクターによって、それが必ずしも「安らぎ」を保証する関係などではなく、言ってみれば「労苦の終わり」など存在はしないのだ、と宣言することで舞台は終わりを迎える、そんなコメディ。


セリフはすべて、「口語」ではなく、過剰な日常語。たぶん、台本の言葉を一字一句そのままうつしかえるという芝居ではなく、俳優の裁量に任されている。というか、俳優の過剰なアドリブを期待しているのか? ほとんどの場面は俳優それぞれのモノローグで構成されていて、それがなんというか、沈黙に耐えかねる自意識過剰な人々のモノローグ、という設定なのか、とめどもなく言葉が垂れ流される。意地悪な演出家なんじゃないか? それを俳優にやらせるというのは。


しかし、これはセリフ劇ではなかった。
セリフには、明瞭な言葉だけではなく、「えへ」とか「もぉー」とかいう笑い声とか嬌声が含まれ、さらにものすごい速度で喋るから、ときとしてどもり、唾を飲み、言葉が途切れ、意味よりも音の方が印象的になってくる。おそらく初期設定のセリフだけ渡されているのだろう俳優たちは、言葉を反復し、内容を迂回させることで、言葉は呪文のような音楽性を帯びてくる。恐らく意図してメリハリをなくしたセリフは、観客にその内容よりも、喋っている俳優の体に注目させようとしている。


現に俳優たちは、喋りながらしきりに手足を動かすのだが、その動きははじめは日常よく見られる神経症的な仕草(あごや鼻をかいたりする)なのだが、その反復がしだいに「日常的な光景」「そういう人っているよね」的な意味を失って、独立した運動として目にとまるようになる。


人を食った芝居だと思う。
結局のところ、芝居の内容は上に書いたように、なにか問題が解消されるわけでもなく、青い鳥は家にいた的な教訓を垂れるわけでもなく、まるでマッチポンプを見せられたように目の前で消えてしまう。
だから見せ所はもちろん、俳優の体、もしくはそこから繰り出される動き、なんだけど、ある種高度な肉体的鍛錬を経たあとの超人的な身体技をこれみよがしに見せるのではなく、通常ならば視線が対象化しないような動きをとりあげ、いかにしてそこに人の視線を導き、欲望の対象とするか、というのがこの芝居の狙いなんじゃないかと、生真面目に俺は考えていたのだった。


と、俺は面白く観た芝居なんだけど、もう少し短くてもよかったんじゃないか、という気もする。それと、構成の問題。上に書いたように、過剰な日常語のために、はじめはセリフがほとんどこっちに入ってこない。が、反復される話はなんとなく入ってくる。すると、ふたまたをかけていた男の別れ話が次第に物語として大きくなってきて、その顛末をもっと聞きたいと思ってきたりもする。そんな矢先に、第二場として女同士のルームシェアの話が始まって、またしても内容は頭に入ってこないから、急激に舞台に対する関心が薄れてしまう。その「突き放し」が狙いだったのかもしれないが、俺はそこからしばらくひどく退屈してしまったのだった。


が、ラストに至って、不意に俺は大笑いしてしまった。それまでモノローグで語られていた芝居が、数人の男たちの「うんうん」といううなずきあう場面に変化したとき、なんだか俺はひどくおかしい気持ちになった。あれはなんだろう?
と、ラストのことを書いて、俺はふと思い出した。
芝居の何ヶ所かで、似たような場面があった。
壁際に並ぶ男女。二人は手をつないでいる。女の長いモノローグのあいだ、男はつないだ手を振る。当然、女は自分の意志と無関係に腕を一緒に振ることになる。
この、二つ以上の人間の体が、動きを同調させる、という光景に、俺はなにか「幸福」を感じてしまうのだろう。


あ、ここに「労苦」と「幸福」との関係があるのかな?