遊園地再生事業団+ニブロール『トーキョー/不在/ハムレット』@シアタートラム

nishiogikucho2005-01-10

なんという偶然か。それともいまの主流なのか。俺はあまり舞台を観ないのだが、去年観た二本の芝居に続いて、これもまたビデオ映像が大きな役割を果たす舞台だった。
スリットの向こうで客席に背を向けた俳優たちの顔は、舞台上のスクリーンに大きく映し出される。「見えにくい細部」ではなく、「本来見えないはずの側面」も可視化される。
その構造は、劇内容にも反映されていて、事故として隠蔽された殺人事件は不可視であるはずの幽霊によって暴かれ、薄暗い部屋の片隅で、まだ出来事の意味を見通すことのできない小学生の妹は実の兄によって犯され、時を隔ててその事実の意味を知った妹自身によって独白される。
しかし、そうすることで、一体なにがわかったのか? 不可思議な力をそこに住む人々におよぼす土地の呪い? その呪いは、王位を継ぐ血族にだけ降りかかるのではない、ということが、終幕近くで登場人物の一人によって語られる。いや、「王位」などと呼ぶほどのものでもない、「町の権力者」の地位は、誰によってでも奪われるものであり、そして、たまたまそこに誰かが居座れば、「呪い」の構造は簡単に人々をからめとってしまう。殺人は繰り返され、誰かはふと姿を消してしまう。


……と、想像を刺激する舞台だったが、表現としてはどこか消化不良な感が拭えなかった。それが狙いなのだろうか? 個々の場面場面、映像と舞台、前景とスリットの向こうの後景、独白と会話、ストレートな芝居部分とダンス部分、それらが有機的に絡み合うというよりも、バラバラに発見された素材をつぎはぎにしたような印象だった。それを楽しめばよかったのか? うーん、俺にはどうも散漫な印象に感じられてしまった。
もしかしたら、ほぼ一年にわたって書かれていた「不在日記」や、あるいは小説『不在』をサブテキストとして読むことまで含めて、長い長い芝居だということなのだろうか?