俺はお前の欲望の対象であるのか? ありたいんだよ!

高校生のとき、一人の現代国語の先生に出会った。
30代前半のその先生は、いきなり『ゼイリブ』の話をした。次に、「ほら、デブが犬のウンコ食う映画」と言うので、一番前の席の俺は、「『ピンク・フラミンゴ』ですか?」と思わず口を開いた。「そうそう! 新宿の薄汚い小屋で、無修正で観たんだよ〜」などとニコニコ言う。
俺は、この先生と、知識の交換をしたいと思ったんだ。なんだろ。子どもが、自分の宝物を大人に差し出すような感じ。大人から見たら、ガラクタにしか見えないものを、とっておきの宝物のように見せてあげる、そんな子どもの心境。
この先生だったら、そういう「子どもの宝物」を馬鹿にせず、同じぐらいキラキラしているなにかスゴイものをくれるような、そんな気がしたんだ。
俺は当時、授業をサボって、神保町の古本屋を巡っては「奇譚クラブ」を探したり、『家畜人ヤプー』の限定版を探したり、そんなことに夢中になっていた。あと、やっぱり授業をサボって、東京国際ファンタスティック映画祭に行ったりね。それでダリオ・アルジェントのサインもらったりした。
そうやって見つけた「面白いこと」を、職員室に行って、その先生に話すのがとても楽しかった。
そういう「子どもの宝物」に対して、同等のものとしてその先生は、「19世紀のロシア文学読んでみ」と言ってくれた。
うまく伝わるか自信がないんだけど……そのとき、その先生とのやりとりで、俺の中では、ジョン・カーペンタードストエフスキーは同じぐらい貴重な教養になったんだ。


俺のいましている仕事は、教師とは無縁のものだし、教師になろうとは思わない。
あの先生だって、「教師」なんかじゃなかった。
俺にとって、「この人に、自分の価値観を拡張してもらいたい」という欲望を持てる人だったんだ。
だから、自分をさらけ出すことができたし、素直に知らないことを受け入れることができた(無論、かならずしも理解ができたわけじゃない)。
で、ひるがえって思う。
あの頃の、あの先生の年齢になった俺は、誰かのそういう欲望の対象になっているだろうか?
愕然とするよね。


やはり、師を超えるっていうのは、難しいことなんだ。