想像力の問題

おぼえてる? 『トゥモロー・ワールド』のクライマックス、クライブ・オーウェンが黒人の少女と赤ん坊を守りながらほとんど廃墟と化した建物から脱出するところ。生まれたばかりの赤ん坊を目にした兵士たちは、神々しいものを目撃したかのように戦闘を停止する。敵味方が一つの感情に包まれる。美しい。しかし、赤ん坊が戦闘地域の外に出たのを確認した途端、またしても激しい銃撃戦が再開される。俺はこの場面、思わず大笑いしそうになってしまった。まるでモンティ・パイソンのスケッチを観ているような感じ。


硫黄島からの手紙』、後半だったと思うけど、日本兵が一人の米兵を洞窟に引きずりこんで捕虜にする場面がある。日本兵たちが、その兵士を殺そうと口々に言う。伊原剛志が、それを制止して、その米兵に「生まれはどこか?」と訊く。はじめは、おそらく日本兵を冷血な悪鬼のように想像していたその米兵は、恐れて口を開こうとしない。だが、伊原剛志の柔和な口調に心を開き、自分の故郷がどこであるかを答える。
その米兵が死んだとき、一通の手紙を携えていたことがわかる。作戦を記したものかも知れないと色めきたつ日本兵たち。が、伊原剛志がそれを手にして読んでみると、それは故郷の母からの手紙であることがわかる。ただ無事に帰ることを願う、特別なことなどなにもない手紙。その内容に、日本兵たちは、自分たちの母親が自分に宛てた手紙のようであると思う。


『トゥモロー・ワールド』のあの場面が冗談のようにしか感じられなかったのは(しかし、こういう言い方で俺は評価しているんだけど)、あの赤ん坊はいつから赤ん坊(子供)でなくなるのだろう、と想像したからだ。政府軍と反政府組織パルチザンの連中は、銃を向け合っているお互いが、かつて同じように神聖な赤ん坊であったことを忘れている。恐らく、クライブ・オーウェンが守り抜こうとし、自分たちも銃を降ろしたあの赤ん坊が成長したとき、彼らは目の前の青年がかつては神聖な赤ん坊であったことを忘れて、平気で銃殺するのだろう。
『トゥモロー・ワールド』は、意地の悪い映画だ。登場人物たちは、いまだこの世には生れ落ちていない生命であったり、何年かぶりに誕生した「珍しい」新生児の生命には関心を払うけれど、目の前の生命に対してはひどく無頓着だ。だいたい生命が大事なのは、人類の存続という抽象概念のためではない。もっと単純に、家族であったり、友人であったりするから大事であるにすぎない。『トゥモロー・ワールド』に登場する人々にはそういう想像力がない。自分が銃を向けている相手が、誰かの子供であることを想像できない人々(しかし彼らは、他人に向けてはそういう想像力が働かないが、自分の家族や友人が殺されると、殺戮者が血も涙もない冷血漢であるように想像するのだろう)。
『トゥモロー・ワールド』は人類が生殖能力を失った世界を描いたSFではない。
人類が想像力を失った世界を描いた現代劇だ。


硫黄島からの手紙』のあの場面も、想像力の問題を扱っている。いや、あの場面だけではない。渡辺謙の携帯している腰の拳銃を見て、「どうせ米兵から奪ったものだろう」と悪しざまに吐き捨てる日本兵。自決した渡辺謙の腰の拳銃を奪う米兵、それに対して怒り狂う二宮和也二宮和也はスコップを振り回すが、あれはもはや人を殺そうとする振る舞いではない。恐らく英語を喋れないあの青年なりの、果てしない無力感にさいなまれた最後の呼びかけだ。お前たちはどこから来たんだ? お前の母はどんな人なんだ? 妻はいるか? 子供はいるか? 日本人の友人はいるのか? ここで死んでいる人にはアメリカ人の友人がいたんだぜ? お前の話、聞かせてくれよ。
硫黄島からの手紙』は、未来をなんとか見つけようとする。でも見つかってはいない。無力感にはとらわれている。冷笑してやり過ごすのも、一つの結論だ。しかし、その前にまだ踏みとどまる。やりきれない思いを、簡単には手放さない。


『トゥモロー・ワールド』のラストには、どこへ向かうのかも知れない希望を積むとされる船が現れる。それはまるで、想像力を欠落させた無力な人類には、恩寵のみが必要だ、と言っているかのようだ。
父親たちの星条旗』も『硫黄島の手紙』も、ラストカットは硫黄島だ。そう簡単に、硫黄島から外へ出してたまるか、そう言っているかのようだ。我々はまだ、この過酷な土地で、どうにかしなくちゃならない。