『春雨ワンダフル』と『如雨露』

試写会にて観覧。自主映画というのは、自主制作というそれだけでスリリングだ。大抵、思ったとおりのことをしようとして失敗している。恐らく、こういうことしたかったんだろうな、と想像がついて、意図と現実との距離が見えると、それは退屈だ。だが、それをどうやら失敗だとは考えていない野蛮な意思が、不意に頭をもたげることがある。だから、この退屈はスリリングだ。いつそいつが目覚めるかなんて、とても予測がつかない。
『春雨ワンダフル』でいえば、女優のキャスティングだ。不機嫌そうなキャラクターにふさわしい、すべてに投げやりな形をしているあの目。魅力の光をそこに宿そうなどと監督は考えていないだろうし、本人もきっと一言「無理」と言うだろう。だが、それに反して唇は「雄弁」だ。いや、大したセリフを言うわけではない。俺自身の好みで言ったら、ぽっちゃりと肉感的な唇の方が好きなのだが、そういうわけでもない。それでも、あの唇は「触って」と呼びかける。だから、主演の鈴木卓爾がキスを(どこか投げやりに、そしてあまり気持ちよくなさそうに)するのも、当然だろう。不思議だ。そういうことってやっぱり起きてしまうんだ。
一方で『如雨露』には、強い意志が全編を覆い、失敗などしてたまるか、という逞しさがみなぎっている。喋り始めるとたちまち魅力を失ってしまう女たちなのだが、舞台上で向き合って「失神ゲーム」と称される遊戯を始めて、グーで相手をポカリと殴ると、相手はパタリと倒れる、あの場面では、「ああ、植物というのは、こんなふうに突然枯れてしまうのだな」と(主人公たちは光合成の出来る女たち)納得させられてしまうし、屋上のはしごを降りてくる様をほぼ真横からとらえたカットには、植物の脚というのはなんて女の脚に似てセクシーなんだろうと気づかされてしまう。