『東京ゴッドファーザーズ』

新宿での最終日、19日に会社を抜けて行きました。ピカデリー4で観たんだけど、ここって、無茶苦茶スクリーンが小さいんだよね。でかいテレビくらい。昔、ここで『パルプ・フィクション』観て、それ以来だな。だって、すごい寂しい気持ちになるよ。あんな映画館、存在しちゃいかんだろ。みんなビックリするよ、別の意味で。
なんだけど、最近では失われてしまった映画館の「場末感」を味わえるという意味では、いいのかも知れない。確か、『タクシードライバー』の中で、デ・ニーロが行くポルノショップの脇の映画館もこんな感じだった。なんだか、ルサンチマンを抱え込んで、鬱屈した思いの投影をスクリーンに見出している、そんなキャラクターとして自分を思い描いてしまう。
すると、この映画、『東京ゴッドファーザーズ』を観る環境としては、かなりいいのかもしれない、などと思えてきてしまう。なにしろ、ホームレスたちが捨て子を拾い、親元へと届けようとする道中に出会う、様々な人間模様が描かれる映画なのだから。勝ちの見込めない日々を送っている、そう感じている観客にとってみれば、これは一瞬の夢を見させてくれる良質のファンタジーだ。せめて映画館にいるこのひとときぐらいは、善人が報われるというのが世界の法則であって欲しい……。
それにしても、映画はやはり細部の具体だよな、と思ったのは、いつもひねこびた視線でホームレスたちを見て、「やれやれ」といった感じでめんどくさそうにしている家出娘が、実は父親を刺してしまったということを回想する場面で、太った情緒不安定な娘として描かれる場面だ。ただ体の輪郭の線を丸く、大きく描くだけで、その娘の「哀しみ」が表現されている。「表現」というと語弊があるんだよな。「哀しみ」がそこにある。ただそれだけ。感情のかたまりを、目にすることができるのが映画なんだな〜、と実感しました。あ〜、『もののけ姫』でアシタカが矢で射抜かれながらもののけ姫を運ぶ場面、あそこで流される血も、感情のかたまりだったな。