『ジョゼと虎と魚たち』

渋谷は人が多いな。新宿とは人の流れ方が違う。新宿は流れているけど、渋谷は滞留している。
歩いていると疲れる。
たまたま渋谷に行って、ちょうど時間が合ったので、観にいったのが『ジョゼ』。
とりとめもない風景を写したスナップ写真に、妻夫木くんのナレーションがかぶさるというオープニング。どうやら「ジョゼ」という女の子との関係は、すでに過去のものであることが告げられる。
つまり、これは別離がはじめから決定づけられている男女の物語であり、だからきっとせつないものに違いないという予感にとらわれる。
とりとめもないスナップ写真、それが伝えるのは、毎日見る風景ががらりと変わって、なにもかもが輝いて見えるような体験をしたということ。写真をとるという行為は、「あえてする」ことだ。自分が普段目にしているものに、意識的になるということ。だから、被写体がとりとめのないものであればあるほど、その意識の変容の大きさが伝わってくる。
動画である映画の中に、意識的に挿入されるスチール写真の数々は、そういう(誰もが経験したことのあるだろう、でもそうそうしょっちゅうは起こらない)意識の変容を見せてくれる。
自分に、そういう意識の変容(「恩寵」?)を与えてくれた人との別れは、ひどくせつない。
映画の最後で、その別れを招いてしまったのは、妻夫木くんの「弱さ」であるとナレーションは語る。それは逆説的に、その出会いが、主人公たちにとってたぐい稀なるようなものであったことを祝福しているように思える。
と、言いながら、画面に出てくる食べ物が、おいしそうに見えないのは、どうにもやりきれなかった。
映画のあと、吉祥寺の天目で焼き鳥を食べた。こちらは無条件においしくて、すっかり幸せな気持ちになってしまった。