『ココロ、オドル』

映画と呼んでいいのか? というのも、これは劇場公開どころか、通常のビデオ作品としての流通すら前提としていない、雑誌の付録として制作されたDVDだから。
しかし、劇場で公開される作品もビデオで撮影されるし、ビデオスルーの作品も「映画」として扱われ「テレビ」ではないし、とあるドキュメンタリー・サイトではどのようなメディアであってもドキュメンタリーであれば扱っていたりする。
ま、それを「映画」と呼びたければ、呼べばいいということだ。
黒沢映画の魅力は、いま観客が目にしている映画というメディアと、世界のありようとが、相似を示す瞬間にある。それは、例えば、いくえものスクリーンによって視界がさえぎられ、あるいはその覆いがとりはらわれて思いもかけないものが出現し、またあるいは死角にあったものが眼前を不意に横切ったりする……というように演出される。
廃工場のような場所で撮影された場面での、ロングと(バストに近い)ミドルとのカットバックは、その典型。典型であるのに、やっぱりドキドキとしてしまうのはなぜなんだろう?
そして、後半での手持ち画面。なんだか、わくわくしてしまった。
これまでの黒沢映画が、複雑怪奇な現実を一度抽象して、純粋に映画としての快楽にだけ身を任せ、それではあんまりだろうというかすかな倫理の声に導かれて複雑な様相をまとおうとしていたのに対して、複雑怪奇な現実(そのものではないが)に「単純に」キャメラを向けたように見えるから。
いや、ほんと単純な手持ち画面なんだけどね。それ自体は、きっと平凡なカットだ。でも……それが、素敵なんだよな。