『エレファント』

 奇しくも、実録殺人モノが二日続いたが、まるでタイプの違う映画。『殺人の追憶』は迷宮入りした事件をもとにした映画。『エレファント』は「コロンバイン高校乱射事件」をもとにしている。

 犯人がすでにわかっている事件というのは、二つのアプローチがあると思う。一つは、事件に至るまでの犯人の個人史を丹念に追い、いかにしてそのような人間が形成されたのかを描く。『刺青〈タトゥー〉あり』とかね。
もう一つは、事件をリアルタイムに再現するような映画。事件というのは、事後的にしか知られないものだから、例えば手口の詳細などは観客の好奇心を満足させる。手口が異様であったり、ショッキングであれば、なおさら。

 つまり、実録犯罪モノっていうのは、観客の知りたい欲望を満足させるためにある。

 さて、『エレファント』はどうなんだろう。事件が起きるまでの高校生たちの日常を積み重ねてゆく。じゃあ、その細部が事件の本質を描き出し、観客の知りたい欲望を満足させているのか、というとそうではないみたいだ。

 何度も視点を変え、ささやかな細部を反復することで、それを「記憶」というスペクタクルに変えてしまう。「あ、これ、さっき見た」という印象こそが大事なのであって、そこで行われていることはさほど重要ではない。それらの細部は、おそらくその日一日にしか起き得なかったことではなくて、昨日も明日も変わらず起こりえることだった。

 つまり、記憶にとどめなくてもよいような細部すら記憶されてしまった「あの日」……。

 観客が知りたいと思うことを知らせるのではなく、別に知りたいと思わないような退屈ことまでも、記憶せよと『エレファント』は呼びかける。

 記憶は、死者への哀悼の念を呼び起こす。あるいは、記憶は死者からの呼びかけか。それがこの映画が、哀しい理由ではないだろうか。