『テキサス・チェーンソー』

……うーん、どういえばいいのか。あ、これも実録殺人モノ。
もしも、オリジナルの『悪魔のいけにえ』を俺が観ていなかったとしたら、この映画を素直に楽しめたのだろうか?
わからない。ただ、あからさまにオリジナルと同じようなカットを挿入しているので、なおのことオリジナルが意識されてしまい、それが致命的になっている……。
へんてこな映画だとは思う。無論、オリジナルもへんてこな映画だった。が、このへんてこさは『2』に通じるへんてこさだ。
たとえば、頭にぽっかりとあいた銃口キャメラが通り抜けるカット。どういうことだ? まあ、あそこはきっとマイケル・ベイが「撮れ」と命じたのだろう。
石かなにかを踏んで車がはねて、後部座席の死体が倒れる場面。俺、こういう「ブラックユーモア」、嫌いなんだよね。いかにも、「俺、気がきいてるでしょ」的な……これもきっとマイケル・ベイの仕業に違いない。
保安官のキャラはどうか? まるで『2』のデニス・ホッパーのようでもある。怒鳴り散らし、銃をちらつかせ、不当逮捕の末に鉄拳制裁。だがしかし……(以下ネタばれ)
                                   ……実は殺人鬼一家のメンバーだったので、その行動には合理性というか、単純に理由があったということが後に判明する。ふ〜ん。
そうなんだ、『悪魔のいけにえ』の犯人一家には、どこか不条理感があったじゃないか。本人たちですら、「どうしてこんなこと俺やってるんだ?」と戸惑っている感じがあり、そこが不気味だった。それは呪いのようなものかもしれない。なんとも知れない衝動を抱え込んでしまい、それに突き動かされて生きていかなくてはならないというのは呪いに近い。
でも、この映画のトマス・B・ヒューイットという殺人鬼には、世間に対する明確なルサンチマンがある。醜い容貌を馬鹿にされているに違いないという被害妄想。そしてそれを支援する家族。
またオリジナルに戻ってしまうが、あの一家は、それぞれが自分の利害のことしか考えておらず、他のメンバーのすることはなるべく見て見ぬふりをしたいのだが、それでも責任を一緒にとらされるかもしれない(家族だから)ので協力しているに過ぎない。レザーフェイスとヒッチハイカーのしでかしたことを親父はしかりつけるし、マリリン・バーンズをいたぶるときだって親父は最初は見てみぬふりをしようとして、やがて血が騒いでしまい、そんな自分が嫌になって「さっさと始末しろ!」と逆ギレしてしまう。
羊たちの沈黙』を思い出してもいい。あの映画で怖かったのは、どうやらモラルなど歯牙にもかけないに違いなく、なおかつなにを考えているのかわからないレクターであって、わかりやすい変身願望を実現するために殺人を繰り返すバッファロービルではない。
だからね、『テキサス・チェーンソー』も下手に『悪魔のいけにえ』の構造をなぞったりしないで、こういう一家のあり方が徐々に判明してくるような刑事モノをやればよかったんじゃないかな。未解決連続殺人を追っている刑事がやがて狂った一家の存在に気づいて(そいつらは普段はおかしくは見えず、それどころか刑事一家と家族ぐるみでつきあっている)、逮捕しようとするのだが、そのときにはすでに敵も自分たちの正体が気づかれたことに気づいていて……というような。