お芝居

日曜日は、保護官とS女史と一緒に三軒茶屋にお芝居を観にいった。
『123(ひふみ)』。
幼少の頃に実の母親捨てられて施設で育ったが、それでも本当の母親は自分を愛していたに違いないと信じる主人公は、同じ施設で育った親友を殺害したことから、母親が与えてくれた名前を捨てる決意をして、身分を偽って東京の新聞販売店に勤める。
そこではみんなに頼りにされ、心配され、愛されているが、同時に捨てたはずの自分の名を呼ぶ悪夢にうなされる。
どちらが「本当の」自分なのか? どちらを自分の根拠とすればいいのか。
そんな、「よくある話」「誰にでも思い当たるような苦悩」、つまり「平凡な話」を「劇」として提示する根拠は、その主人公がとある大規模な事故の犠牲者であるから、とラストで分かる。
雑誌記者として再登場する一人のキャラクターは、単なる数として消費される犠牲者としてではなく、それぞれの人生が突然断ち切られた不条理を伝えようとして、犠牲者の数だけの人生模様を記事にしていこうとする。
おそらくそれがこの「劇」の根拠なのだろう。
だけど、「それを言われても……」という感じを受けてしまった。
観客は、「身近で理解しやすい」からキャラクターに共感するのではない。そのキャラクターに「惹きつけられてしまう」から共感「しよう」とする。
……のではないかな、などという感想を持ちました。