『カツどん』『奈落の犬』『キル・ビルVOL.2』『パッション』

駆け足で。


『カツどん』。監督は、役者でもある岸建太郎。役者としての彼は、格闘技をやっていた経歴から、その特異な肉体を誇示することで舞台上の空間を異化してみせる。監督である彼は、素晴らしく理知的だ。借金取立てのチンピラを演じるのは岸自身。取立てを受ける鉄工所の社員を演じるのは、一部で熱狂的に支持される特殊系の極北をいく(当社比)高谷基史。この二人の噛み合わない会話がスケッチされるのだが、それははじめのうちよくある小劇場的なくすぐりに思われる。が、やがて観客は自分たちが目撃しているのが、非日常の極みであることを理解し始める。
あえてネタばれ覚悟で言ってしまおう。
ここには本物の宇宙人が写っている……。
通常ならば「失敗」とされる露出オーバーの画面や、画質を低下させ荒れさせるデジタルズームなどの技術、そしてノイズ音などが効果的に組み合わされることで、映画は本物へと至る。このやばさは、多くの人に目撃されるべきだと思う。
『奈落の犬』は、『カツどん』の同時上映作品。過去にわけありの元刑事である探偵と、ちゃらんぽらんな助手とが、失踪した女の行方を探してくれと父親に依頼を受ける。繰り返し語られてきた物語に、あえて挑戦する勇気に驚く。恐らく観客の大半は、自分たちが観てきた過去の作品のあれこれを思い浮かべるだろう。それはつまりこの映画の役者を、あれこれの有名な映画のあの人この人と比較することにつながる。大変な冒険である。
ちなみに『カツどん』は、「黒子ダイル」という集団による作品だそうで、ここで情報が見られます。
http://kuroko.or.tv/top12htm.htm


キル・ビルVOL.2』は、まあ言うまでもないだろう。復讐劇としては、こちらの方が正当なのだ、という評をあちこちで読んだが、ジャンル映画として正当であるかどうかなど、果たしてそれほど重要なことなのだろうか? ことにタランティーノの映画で。そりゃ、確かに、「へえ、タランティーノもやればできるんじゃない」という見方はあるんだろうが、果たして「監督主義」はいまの時代有効なのか? つまり映画監督の名で映画観てもしようがないでしょ。それとも、それ以外の見方は、この映画の場合、よせつけない? どうでもいいけど。それにこの作品でも相変わらずタランティーノは、過去の特定のジャンル映画への目配せとして、さまざまな技術の模倣などをパッチワークしていて、その記憶を共有しない観客にとっては、それらは物語を享楽する上でのノイズにしかならないのではないか、などと心配してしまう。余計なお世話? 監督の名に興味を持てない俺としては、「VOL.1」の方が楽しめました。
が、背の高い女好きの俺としては、ダリル・ハンナの活躍を観るだけで満足です。とにかくかっこいい! タバコをくゆらせながら電話をするというだけで絵になってしまう。そしてアイパッチが、あの瞳の鋭さを強調して、観客をクラクラと魅了する。参りました。


『パッション』はねぇ、いい映画だと思いました。いろいろとスキャンダルのまつわる映画だけど、俺は聖書物語好きの一人として、例えばペテロが「あの人なんか知らない」と自分の師を否定する場面や、十字架にかけられた罪人の一人がイエスのことを「この人は裁く人であるのに、ここに不当にかけられている」と言い、「天国に行ったら、私のことを思い出してください」と信仰を告白(?)する場面などに、素直に感動してしまった。そりゃ、イエスに対する鞭打ちの場面など、「やりすぎ」感は否めないけれど、それでも俺にはこの映画、決して下品な映画ではない、と感じられた。描写のどぎつさのわりに、画面の運びに「作者の狙い」(あるいは、作家的自意識といってもいいが)のようないやらしさがない。人物それぞれに対するクロースアップでも、極端なアップはそれほどなく、周囲の人物たちの中にいる誰か、というフレーミングをしていて、近頃のアメリカ映画の「近寄りすぎ」なクロースアップにうんざりしている俺には、節度すら感じるのだった。
ところで、うちの祖母は昨日電話で「いい映画を観たよ」とこの映画のことをほめていて、少しびっくりしてしまった。心臓発作を起こさなくてよかったよ。あまり無理しないでね、おばあちゃん!