『ハイウェイマン』@新宿トーア

「いいのか、この映画?」と困惑してしまった。
復讐の陰惨さ、ここに極まれり。というか、映画の陰惨さ、ここに極まれり、かな。大袈裟?
「もしかしたら主人公のその復讐、妄想なんじゃないか?」という疑念もぬぐいきれず、その妄想を信じ込んだ警官がサイコな連続殺人犯に仕立て上げられたおっさんを撃ち殺す場面で、おいおい法の手続き踏まえろよ、それってリンチじゃん、とショックを受けつつ劇場を出たのだった。
以下、ネタバレ含む考察が続きます。
まぁ、映画はなにを描いてもいいんだから、と言ってしまえばそれまでなんだけど、だけど、スプラッター映画を観ても俺は特にショックは受けない。それは日常の倫理には反しているけれど、「映画の(主人公の)倫理」にはめったに反しない。仮に、映画の主人公というのが、観客にとって「こうあって欲しい」と無意識に望まれている存在だとしたら、やはりそこにはなんらかの倫理観が反映されているんじゃないかな。


例えば、『羊たちの沈黙』で、ジョディー・フォスターがついにバッファロー・ビルを追い詰める場面。真っ暗闇の中で、バッファロー・ビルは赤外線暗視スコープをつけて、ジョディー・フォスターの背後に近づくでしょ。で、ジョディー・フォスターは、バッファロー・ビルのたてた物音に、とっさに反応して九死に一生を得た。
この手続きが、大抵の映画の倫理観を表してると思うんだ。相手がどんなに悪逆非道な悪人であっても、そいつを主人公が殺すには、相当の段取りが必要だってこと。
ほら、こんな場面あるでしょ。ついに主人公が悪人を追いつめる。悪人は両手をあげている。主人公は情けをかけて殺さずにおく。で、主人公が悪人に背を向けたとき、悪人が隠し持っていた銃をとりだし……主人公(もしくはパートナー)がとっさに悪人を撃ち殺す。
あ、つまり正当防衛のニュアンスが入っているってことかな。


『ハイウェイマン』の場合、敵役のキャラクターを異様なものにしようと考えすぎて、その段取りのために必要な、「悪人は主人公よりも圧倒的に強く有利であるべきだ」というしばりを捨ててしまっているんじゃないかな。
交通事故の後遺症で歩くこともままならない男が、車という無敵の肉体を手に入れて次々と人を殺す、というアイディアに、製作者たちは「異様なキャラクター」を狙ったんだろうけど、そいつが車から降りて無力になったところを、主人公が車で圧殺するという形で復讐を果たすというのは、どうなんだろう?