en-taxi

数号前では根本敬の小説が、今号ではECDの小説が掲載されている。どちらも読みきりだが、なんというか自分にとって「旬」(まあ、根本敬はずっと「旬」なのだが)な人の小説が載っているというだけで、購入の理由になる。とはいえ、これが「群像」だったら買わないだろうな。つまり文芸誌ね。理屈じゃなくて、雑誌の放つオーラ(匂い、と言ってもいい)。俺の偏見なのだが、たとえば「文藝」に根本敬なりECDなりの小説が載っていたら、「この人たちも、『文学』の人たちから認められたんだ/認められたいんだ」というニュアンスを感じてしまう。一方で、「QuickJapan」に載っていたら、それはそれで「ああ、この雑誌も『文学』好きなのね」と感じてしまうだろう。で、そういう感覚の根拠ってなんだろうと少し考えたら、きっと雑誌の綴じ方にあるんじゃないのかと思い至った。専門的になんていうのか知らないので、出版関係の人、いたら教えてね。ほら、「少年ジャンプ」と「ヤングジャンプ」の違い。en-taxiが「文学」の匂いを感じさせないで、だけどサブカル雑誌に堕さないのって、この綴じ方にあるんじゃないの? ホッチキス(?)で真ん中綴じてるの。


ところで、ECDの「中野区中野1-64-2」。面白い。キャラクターが出てくる小説じゃない。物語ではない。いくつかの風景の描写と、それらに関するちょっとした思い出やら考察やらが続く。前半、「ん? 下手じゃないか?」と感じるんだけど、途中、語り手が近所の屋敷に不法侵入して見つかり、その家の人に質問をされる場面があって、そこから俄然面白くなる。語り手がその家の人の話を聞かないで、足元のアリジゴクのすり鉢が気になる場面。語り手の関心の移り方が唐突なんだ。それ以降、語り手は自分の生理に気づいたかのように、脈絡を欠いたエピソードの移り変わりに終始する。語り手のキャラクター性っていうのかな。んー、語り手の考えていることとか、語り手が体験したエピソードそのもの、ではなく、あるエピソードから次のエピソードへ移る、その移り方が面白い。
とはいえ、30歳を過ぎても万引きの癖がなおらない、とかいうくだりは笑ってしまうような、素直に面白いエピソードなんだから、俺の言っていることもテキトーだ。