昨日あたりからふと思いついたこと

議論の場で、「正論」を言われて、なんとなく場が寒くなることがある。
コメント欄とか、トラバとか、飲み屋の愚痴とか。
そう、愚痴を言いたいだけの人に、「働けばいい」「転職すればいい」「過去の決断を変えることはできないのだから前向きになれ」「俺も似た失敗をした。お前はこうすればいい」……なんていう「正論」を言っても、仕方がない。
愚痴っていうのは、人の話にかこつけてする場合もあるよね。ブログなんかだと、人のエントリーへのトラバ記事で、「自分も似たような経験をしたことがあり」云々と。そういうトラバ記事を、「意見」として扱う(つまり、一種の「正論」として扱う)から、変なことになる。単純に、人の話に刺激されて、自分語りをすることってある。俺のこのエントリーもそう。


こっから本題……になるかな?


ふと思ったんだけど、「でも、正論ってなんなのさ?」。
愚痴を言ってる人に、「論理的に反証」するのが「正論」?
あー……ん……。
あちこち、飛びながら言うけどさ。
「議論」にも、「物理的な時間」が決定的に作用する。これ、つまり、議論してるとだんだん疲れてくる、ってことなんだけど。「正論」を言いたがる人は、まるで「論理空間」だけで議論ができるように思っていないだろうか? 実際には、人は議論しながら、疲れるし、腹減るし、腰も痛くなるし、目も痛くなるし、咽喉も渇くし、トイレにも行きたいし……。だから、「じゃあ、その議題はペンディングで」ということだってある。あるいは、「暫定的に某さんの案で」とかなったりする。
だけど、中にはそういうあいまいな終わらせ方が、生理的に嫌な人もいたりする。なんとか自分の意見の正当性を通して、相手をやりこめたい人がいる。
ああ、俺はそういう人が苦手なんだな。実は俺もそういうタイプの人間だから。そう、だから、これは自分に向けてのエントリーだ。


話はまた飛ぶが、たとえば、「三角形の内角の和は二直角」というのがある。
これを、最初に発見したとき、人は、なんかわくわくしなかったかな?
もうね、古代ギリシャホッテントリ。みんな[これはすごい]とか[あとで確認する]とかタグをつける。みんな試しに手元の砂に三角形を描く。いろんな三角形。いくらやっても、「おお! 本当だ!」となって、自分のブログにそのことを書く。
なにが言いたいかって言うと、正論が正論として扱われるためには、こういう感情を喚起する力が必要なんじゃないかってこと。なんつーか、感嘆? タウマゼインだっけ? 「そんなこと想像もしてなかったーーー!!」みたいな、驚き。急に世界が広がって見える。意識の拡張体験? 知らんけど。


で、三角形の場合には、まあ、論理空間のみでの議論で、そういう驚きが起きたりする。大事なのは、「新発見」、だよね。
でも、ことが人間の感情に関わることだとしたら、必ずしも新奇なことを言う必要がなかったり、あるいは逆に誰も言わないような逆説を弄したり、とにかく場面ごとにやり方は変わる。
やり方は変わるけど、大事なことは変わらない。同じ。人の感情を揺さぶるような論理だ。いわゆる、論理学的な厳密な論理展開が、人の感情を揺さぶることだってある(たとえば、ゲーデル不完全性定理は、いまでもそれを初めて知った人に、感情的な動揺を与えるんじゃないかな?)。一方で、根本敬が言うような、「でもやるんだよ」というオヤジの論理も、ときとして人を動かしたりする。ああ、「あの人が言ったから」っていうのもあり。
つまりだ。「正論」はアプリオリに「正論」なんじゃなくて、人の感情を揺さぶって、変化をもたらすようなものが事後的に「正論」になるんじゃないかな。


正論を言う人は、それを相手にとっても正論だと思っているかもしれないけど、必ずしもそんなことはない。そんなことがある場合もあるし、そんなことがないときもある。誰にもわからんよ、それは。正論は、外宇宙からやってくる。そう、正論は第9計画なんだよ。
だからね、人をやりこめようとしたって、相手から「無言」しか引き出せなかったら、やりこめたことにはなんないんだよ。相手がさ、「え? なにそれ! すげえ!」と驚いたとき、その瞬間にその場に正論が発生するんだ。
と、とりあえずは思ってみよう。と留保するのは、じゃあ、感情を揺さぶれば全部正論かって言ったら、そんなことなくて、ときにカルトはそういう感情操作をうまいことやって、人を強引に変化させてしまうからね。
結局、結論はでずじまい。俺のエントリーは俺の感情を揺さぶりませんでした。ぎゃふん。


追記。
「うんうん」と頷くこと、リアクションすること……などが「励まし」として感情を動かすこともある。