痛みのことなど考えている

いろいろ観たよ。
ジャーヘッド@新宿プラザ。最前列にタイガーマスク氏がいた。映画館での遭遇率高し。
次郎長三国志(@シネマヴェーラ)は結局、三部と七部を見逃してしまった……orz。とにかく男たちが泣く場面がいい。オシリペンペンズの曲で、「大人が泣くのを初めて見た」とかそういう詞の曲があったけれど、ホント、口惜しくて口惜しくて仕方がないとき、大の大人も声をあげて泣くんだよ。
『走れ!カメラ小僧!! 1Shot2Love』@UPLINKFACTORY。そして、この映画の作者の一人であるid:screammachine氏は、舞台の上で、「こんな映画でも愛してちょ〜よ」と大人泣きしたのだった。俺は次郎長になった気持ちで、「俺は嬉しいんだよ、この場にいられて」と、そう言いたかったんだ。
ブロークバック・マウンテンシネマライズ。この映画の主人公二人には、とりあえずこう言いたい。「表でいちゃつくな」と。
個人的にここ数週間観た映画の中でもっとも心に残ったのは、ヒストリー・オブ・バイオレンスだ@東劇。ヴィゴ・モーテンセンが、マフィアの一員だった過去を隠して田舎のダイナーの主人をしているんだが、とある事件がきっかけでそのことが露わになってしまう。で、俺がやっぱり惹きつけられるのは、暴力をどう描くかってこと。目にもとまらぬ速さで、ヴィゴは窮地を脱し、同時に敵を殺してしまう。第一印象は、「強すぎる!!!!」。とある知人(id:samurai_kung_fu)は、『沈黙の田舎』だね、と評していた。細かいカットの積み重ね(と言っても、例えばトニー・スコットのような断片ではない。それぞれのカットがなにを写しているかきちんとわかる)で、ヴィゴがどのような手続きを踏んで相手を殺したのかが描かれる。そのカットわりが、ヴィゴのアクションを不自然に見せるように俺には思えた。そんなふうに人間は動けないんじゃないか? いや、実際には、一連の動きがまずあって、それをカットでわっていったのかもしれない。そうだとしても、不自然に見えてしまうんだよな。でもいいんだ。クローネンバーグは暴力を行使する人間を、格好よく撮ろうとはしていない。あのカットわりは、アクション映画として見たら、不器用だ。で、それを狙っている。恐らく、クローネンバーグがより興味を持っているのは、暴力の結果だ。……人間は簡単に壊れてしまう(ちなみに、スピルバーグの暴力は、「偶然」だ。思いもかけずに……ということは、誰にでもいついかなるときにでも暴力がふりかかる)。そして、その、ゴロンと投げ出された死体は、不可逆なものとして、家族に重くのしかかる。人間は壊れやすく、そしてもとに戻らない。人間が結局はモノなのだ、というのはかつてのクローネンバーグにもあった認識だけど、それを生き残った人間たちは重みとして受け止める、という形で人間がモノであるだけではないのだ、とクローネンバーグが言っているように感じたよ。
逆に、人体は思った以上に壊れにくい、という視点で暴力を描くことだってできる。『インプリント〜ぼっけえ、きょうてえがそういう映画だった。ある娼婦が、女将の指輪を盗んだという嫌疑をかけられて、拷問を受ける。女郎たちが、彼女を押さえつけ、サディスティックな喜びの表情をたたえた女将が、彼女に言う。「客商売だから、見えるところに傷は残せないね」。女将は、鋭利な針を、娼婦の指先の爪のあいだに突き刺し、ねじりこむ。ゆっくり、ゆっくりと。娼婦は全身に脂汗を流しながら悲鳴をあげる。爪と肉の間に血がたまりはじめるが、さらに針は奥にねじこまれる。……という拷問を、十本の指すべてに対して行う。次に(まだ続く!)、女将は、娼婦の唇をめくりあげて、歯茎にも同じように針を刺す。何十本もの針が上下の歯茎に突き刺される。娼婦はよだれをたらし、涙をながし、小便を漏らすが、拷問は終わらない。三池崇史監督は、暴力の結果を執拗に写す。針が差し込まれる寸前までを写して、娼婦のリアクションにつなぐ、ということはしない。針が執拗に肉に食い込む様をきっちりと写し、娼婦のリアクションも押さえる。人体が壊れる様を描きながら、同時に、人間としてのリアクションも描く。モノとして扱いながら、同時に人間としても描く。たぶん、そこに三池映画の「痛さ」があるんじゃないのかな。で、この場合の「壊れにくい」身体っていうのは、「モノであると同時にヒトでもある状態」のことなんだけどね。その状態を引き伸ばすことに、たぶん三池監督は賭けている。