カート・コバーンは俺を笑わせようとしている

『ラストデイズ』シネマライズ。思うに三部作では『ジェリー』が最強だと思う。あの、夜明けの場面。人間が生きたまま幽霊化してしまう場面には震えた。もちろん『エレファント』も『ラスト・デイズ』も、人間を幽霊化する映画だ。幽霊化とかいうと大げさだけど。『エレファント』と『ラストデイズ』は目の前に起きている出来事が、どんどん思い出と化していく。反復される同一のカット、別ポジションからの同一の芝居、以前目にしたカットの前後の時間の描写……それらが、シャッフルされる。それはたとえば、タランティーノの映画のような、パズルとしてのシャッフルとは違っている。物語に推進力を与えるために観客に情報を隠す役割としての、パズル=シャッフル、ではない。まるで、忘れていた「あの瞬間」をふと思い出すような感覚になる。「これからなにが起こるんだろう?」という興味ではなくて、忘却していたあの日あの時間を想起して、「ああ、こんなこともあった」と驚くような感覚。記憶には、「親しみ」と「驚き」がある。そんなことを観ているあいだ、なんども感じた。それはもちろん、『エレファント』が「コロンバイン高校事件」を、『ラストデイズ』がカート・コバーンの自殺、という、多くの人によって共有されている記憶をベースにしていることと無縁ではない。誰もが、その最後の結末の記憶は持っている。ニュースとして。誰も、その事件の始まりから立ち会ったわけではないから、そこの記憶しかないのは当然なんだけど、映画は、誰も立ち会わなかった瞬間をも、「想起される記憶」として作り上げることができる。捏造? そうかもしれない。だけど、誰かを悼む、というのは、その人について知っていることを思い出すだけではなくて、知らないことすら思い出してしまうことなんじゃないかな。それこそ、フィクションと呼ばれるものなんじゃないか?
あ、『ラストデイズ』では、最後の最後に、「思い出」ではない、まさに「その場に居合わせた!」という瞬間がある。幽体離脱する瞬間を描いているんだ。文字通り、天国への階段を登る。あの場面は、ドキュメンタリーだよ。


ところで。
タイトルの意味ね。カート・コバーンと俺について。


カート・コバーンが自殺してから、一年と少しが過ぎたある日のこと。7月の暑い日だったと思う。俺は、バイト帰りの疲れた体を西武新宿線の座席に沈めていた。と、目の前に二人の若者が立った。彼らは、いかにもパンク風の格好をしていた。
若者A「今日ってさ、カート・コバーンの命日じゃねえ?」
若者B「そうかも」
この時点で、間違っている。4月だよ、カートが自殺したの。と思ったが、無論俺は黙っている。
若者A「××君がさ、カート・コバーンのTシャツ買ったんだよ」
若者B「え、いいな」
若者A「目がさ、光ってるんだよ。かっけーんだよ」
若者B「どこで買ったの?」
若者A「高円寺だって。俺も買おうかな」
若者B「俺も買おうかな」
若者A「お前さ、カート・コバーンのバンド、聴いたことある?」
若者B「ない」
若者A「俺もないんだけどさ、激しいらしいぜ」
……こいつらはコントでもやっているのか? しばらく会話が中断するが、次の発言でコントは再開される。
若者B「俺さ、最近、ジャズとか興味あるんだよ」
若者A「へー」
沈黙が続く。
若者A「俺さ、最近、すげえいいCD買った」
若者B「なに?」
若者A「サザンのスイカ
若者B「いいな〜。ダビングしてよ」
若者A「いいよ」
このファッションパンクが!!!!!!!!!!!


さて昨日。
そこまで頭おかしくなかってけど。隣の二十歳前後のカップルが……。
女「スメルズ・ライク・ティーンズ・スピリットってどういう意味?」
男「わかんね」
女「トリビュートって、どういう意味?」
男「知らない。××君、英語得意だからこんどきいてみよう」
女「あー、大学行きたいなー」
……あー、難しい。あの面白さを伝えるの。微笑ましいというか、なんというか。


絶対カート・コバーンは、コネタで俺を笑かそうとしている。