「なぜ○○してはいけないのか?」について俺も考えてみたよ

2006-03-22 - 絶叫機械+絶望中止

狂うのは面倒くさい、うんこを壁に塗ったり、奇声をあげたって誰も注目してはくれない。だからおれはインターネットや日本語という公理は疑わず、楽に疑えるものだけを疑おうとする。そうすればみんなかまってくれるし、ぼくもそんなに悪い気はしないはずだよ。といった具合だ。

 だけど、それはずいぶんと、ずる賢いやり口じゃないか。

なぜ「ずる賢い」? たとえばさ、こんな状況を考えてみればいい。みんなでレストランに入る。美味しい食事をして、楽しい会話をする。いい雰囲気だ。そんなとき、「かまってかまって」願望の高い一人の子どもが、「どうして人の肉を食ってはいけないの?」と口走る(発言の内容はどうでもいい)。先ほどまでの雰囲気が台無しになる。恐らく、両親はそんな子どもに、「そんなことを口にしてはいけない」と言うだろう。馬鹿な子どもは、「言論の自由はないの?」とか言うかもしれない。あー、なんて頭の悪い、そして、「ずる賢い」子どもなんだろう。そんなことを口にするガキは、そんなことを口にしたところで、そのレストランから(もしくはその仲間の輪から)追い出されることはないだろう、と計算しているからだ。「なぜ自分はこの仲間の輪の一員なのか?」という、「存在」を巡る質問は巧妙に避ける。そこが「ずる賢い」ゆえんだ。さらに言えば、そんなことを質問する「ずる賢い」子どもは、自分の疑問を確認するために人肉を食ってみたりはしない。あくまでも、「質問する存在」であるかぎり、この輪から放逐されないことを知っている。


さて、「ずる賢い」子どもには、「うるさい」と言い放てばそれで終わるのだが、せっかくなので、真摯に答えてみたらどうなるだろう?

 平行線は交わらないから平行線だと思うよね、その通り。これは疑いようのない事実だと、けっこう長い間(千数百年くらい)信じられていた。だけどつい最近(二百年くらい前)に、この法則が違っても成り立つ新しい法則をガウスというひとが思いついてしまった。歪んだ空間の中では平行線が交わることもある。非ユークリッド幾何学ってやつだ、名前は聞いたことがあるでしょう。

 まァこんな感じで公理というのは状況によって変わることもある。なぜなら公理は自明のことであって、そもそもそれが正しいかどうかは証明できないからだ。

ユークリッド幾何学と、非ユークリッド幾何学とは、どちらがどちらより正しい、というような比較はできない。それらは、いずれも、世界の記述の仕方ではあるのだけれど、それぞれが前提とするのは、「その記述の仕方に見合った世界」でしかない。「歪んだ空間」をそもそもユークリッド幾何学は排除して考えるから、そこで平行線が交わったからといって、ユークリッド幾何学そのものの正しさはまるでゆるぎない。
ユークリッド幾何学そのものの正しさは、ユークリッド幾何学の内部にいることでしか担保されない。その根拠は、ユークリッド幾何学の外側には、ない。
「○○してはいけない」という公理の正しさについても、同様だ。その公理の正しさは、その公理を採用する社会の外側には、ない。


だが、こう言うことはできる。
「○○してはいけない」と言うときに、人は(社会は)、暗に「人間は放っておけば○○してしまうかもしれない」という人間観を抱いている。
その人間観には、倫理は含まれていない。そこには、ただ混沌がある。その混沌は、あくまでも「人間の可能的なあり方のすべて」が含まれている。ここには、倫理の根拠はない。
「○○してはいけない」という倫理について人が間違ってしまうのは、「そもそも人間は○○してしまうかもしれないことを恐れているからだ」という根拠を指し示したがるところだ。
根拠はない。人は、あらゆることをしてしまう混沌を抱え込んでいる。
「○○してはいけない」という公理・倫理が、「正しい根拠に基づいた、正しい判断」だから、守らなくてはいけないのではない。
それは、それを「守ろう」と意識しなければ楽々と崩れ去ってしまうような脆いものだからこそ、守らなくてならない。「守る」という「行為」を続けることでしか、「正しさ」は生まれない。
それは、(反発や誤解を招く言葉だとは思うが)「信仰」ということなのかもしれない。