人もとい俺は真剣になるほど間抜けになる

昨日、後輩の一人と飲んでいたら、高校から大学にかけての、間抜けな思い出がポロポロと思い出された。
面白いぐらい、自分の発言忘れてるね。
俺は20歳過ぎぐらいのとき、「人は先輩にモテるため、上司にモテるため、尊敬する人にモテるために、頑張るんだよ」などと言っていたらしい。そして、後輩はそれを真に受けて、頑張って勉強していたのだそうだ。人に影響を与えるのは、常にたわごとだったりするのかもしれない。


さて、今日の本題。
19歳のとき。大学生になったばかりだった俺は、周囲に友だちがいなかったので、高校の後輩を使って自主映画を作っていた。
あるとき、俺が作っていたのは、「ウンコ味のウンコと、カレー味のウンコ、どっちを食うか」について議論しあう若者二人の、映画だった。……いや、それを果たして映画と呼ぶべきなのか?
そう、いまなら「見る前に跳べ」などと言わず、「ちょっと待て!一回限りの人生だ」などと自殺名所近くの標語のようなことを自分に言い聞かせるだろう(いや、そんなことがないことは、先日の衝動的な北海道行きから周知のことなのだが)。
だけど、そういうことをやっていたんだよ。
そしたら、後輩の一人が、不意に怒りを露わにして、俺に食ってかかったんだ。
「アンタがやりたいのは、こういうことなのか!」
俺は思わず、言い返したよ。
「やりたかないけど、これしか思いつかないんだよ!」


もうね、処置なし。怒るほうも怒るほうだよ。だって、いつもそんなことばかりやってたんだから、後輩も俺のことを把握しろよな。で、そんなことで怒っても、生産的なことなどなにもないだろう。
一方の俺は、さらに間抜け。言うに事欠いて、「これしか思いつかない」って……。だったら、やらなきゃいいだろ。「自主」映画なのに、どうして渋々やっていたんだろう……。


だけどね。俺は、このことを白日のもとにさらして、単に自虐的に青春を振り返っているだけじゃないんだ。そりゃ、多少は甘酸っぱい気持ちにもなるよ。
でもね。自主的にやらなくちゃいけないことを、渋々やるっていう、この逆説的な行為こそ、人を前進させるんだと、俺は思うんだ。
そうじゃなかったら、凡庸な完璧主義者である俺たちは、なにもしないままに、「自主的」にもならずに、ただ他人の凡庸さをあざ笑うだけの、つまらない人間に成り下がっちゃう(まあ、ここにはあからさまに俺の差別が存在する。他人をあざ笑う人間が、本当につまらない人間かどうかの検証は抜きだもんな)。
だから、俺は30歳を過ぎた今でも、「俺はホントにしょーもないことばっかり考えてるな。処置なしじゃ」と自分につっこみを入れつつ、「これしか思いつかないんだよ!」と逆ギレして、日々を乗り切っているんだ。


ああ。上のほうで、「ちょっと待て!一回限りの人生だ」と言ったのは、まあ、そういうブレーキも必要ってことでね。
生きていくのに、間抜けと矛盾は必須の友だよ。