不自由であることに快楽をおぼえられるかどうか、それが問題だ

最近、職場で、「最近の若い衆は最低限の教養すらない」というぼやきがあって、彼らのために「これだけは知っておけよ」というリストを年長者が作るべきではないか、という提案があった。まあ、俺もその立場上、そのリストを作らなくちゃいけないんだけど……憂鬱だ。
なぜ憂鬱か?
そもそも「教養」ってなんだ?と思うから。それだけなんだけど……いつものように、ダラダラと迂回しながらこのことについて書いてみよう。


先日、西荻のとあるお店で飲んでいて、そこのマスターと話す機会があった。お互いに、哲学に関心があって、共通の読書体験があったりしたんだよね。年齢が近いこともあって、「やっぱりニューアカの残り香とかありましたよね」とか、そういう雑談ね。
で、そのときに、「ところで最近の若い衆は、背伸びをしない印象がある」という話になった。自分がある本・著者について知らないということを、まるっきり恥じないで、開き直っている、そんな印象。
これって、難しい話題でさ、結論を先に言えば、「まあ確かに、そのことについてお前が知らないとしても、お前の価値が下がるわけじゃないから、開き直るお前は間違ってはいない」ってことなんだけど、それでもおっさんである俺ら(って言ったって30代前半だぜ?)は、一抹の寂しさをおぼえる。知識の量で、人を差別するような社会であればいい、ということではなくて、「背伸びをするエネルギー」を感じていたいってことなんだよね。


俺が高校生のときには、先輩だけではなくて、同級生にも、自分なんかよりたくさん本や映画や音楽を知っている連中がいた。で、そうすっと、自分もなんとか対等に話をしようとして、読んでもいない本のことを知ったかぶりしようとするのね。一人になると、「やべー」とか思ってね。「絶対ばれてるよー」って。それで、慌てて図書館に行って、その本を手に入れて、慌てて読んでみたりする。でさ。続けて悲劇が起きるわけよ。「読んだけど全然面白くねぇ。でも「それ、面白いよね」とかこないだ言っちゃったよ!」みたいなね。
ま、微笑ましい青春の一ページじゃないの。
で、そういうアホな体験を通して、なにを得るかっていうとさ、「ああ、こんな身近なところにも、自分とはまるで違ったものを面白がる価値観の持ち主がいるんだな」っていう、ひどく当たり前の認識だと思うんだ。納得ではなくて、知らなくてもいい問題を新たに増やすような体験。そのことが、なぜか気持ちいい。


たまたま、職場に「SPA!」があって、開いたら、福田和也がこんなことを言っている。

何で古典をやるかというと――日本で生活していたら、漢文って必要ないじゃないですか。イギリスでもギリシャ語なんか必要ない。だからこそ、まったく無縁な、しかも歴史的に断絶した土地と時代について徹底的に学ぶことで、要するに、自分とまったく異質なものも理解できるようになると。

この話、俺は共感をおぼえる。でも、大事なのは、「異質なものも理解できるようになる」ことが「いい」「悪い」っていう価値判断とは無関係だってことなんだよね。


自分にとって異質な価値に触れたときに、ふわっと世界が拡張するのを感じるような、そういう快楽が俺にはある。
これについては、説明するのは難しい。
背伸びをすると、少しだけ遠くまで見えるようになるってこと、かな。で、気づくと、成長期だから、背伸びしなくてもそういう目線になったりする。それでまた背伸びする。気持ちいいから。


かつて、そういう背伸びをしたことのあるもの同士で話すと、その気持ちよさの記憶があるから、またそれを味わいたくて、「じゃあ、××って本読みました?」「え、○○って映画は?」とお互いの引き出しにあるものを出し合って、なんとか相手の見ているものに届こうと背伸び合戦をする。このことが、傍目にはただの「知識の総量の比べあい」に見えてしまうのかもしれないけれど、そうではない。


話は飛ぶけど、俺、映画をビデオやDVDで観るのが苦手なんだよね。それは、背伸びとはちょっと違うけど、俺が不自由の快楽を愛しているからかも知れない。自分の好きなときに鑑賞できるDVDはとても便利だ。でも、その便利さが、なんだか映画を俺の側の卑小さに引き寄せている気がしてしまう。映画館に行って、2時間拘束されることの不自由さは、退屈であることのほうが多いけれど、「異質な」なにかに出会わせてくれる(DVDで観たって内容は同じだろ、という人は、きっと映画を「コンテンツ」としてしかとらえていないのだろう、と俺は思う)。


そして、話は再び「教養」へと戻る。
きっと「教養」というのは、リストにはできないものだ。それは……ある運動へと人を誘うなにかだ。
たとえば、自分が大好きな女の子が、武田百合子好きだったとき、「武田百合子」は俺にとって教養となる。それを読んだからといって、その女の子と仲良くなれるかどうかは知らない。その子自身が、俺にとって「異質な」誰かであり、であるからこそ俺の欲望をさらに加速させる。そんな俺の視界に、「異質な」武田百合子が浮上すれば、それは俺にとっての「教養」だ。