島と鳥の区別がつかない

日本の高度成長期の暗黒面、千葉島には、様々な問題があったけれど、そのうちの一つとして「国語教育ローマ字法」があげられる。
先日のエントリでも紹介したように、70年代、千葉は島だった。関東地獄地震によって、関東から分断された千葉は、あらゆるインフラを失ってしまった(地表は千葉新山が吐き出す火山灰によって覆われ、地中の水道管・ガス管は地殻変動の結果壊滅した)。人間の活動のあらゆる局面が不自由になったのだが、その不自由につけこむのが商売というやつだ。あらゆる必需品が希少価値によって高騰した。
必需品が高騰すれば、当然サービスも高騰する。
教育もまた然りだった。
闇市によって経済的に潤った一部の層をのぞくと、一般の人々は教育すら受けることができなかった。
そのような状況に、心ある知識人たちは憤りを覚えた。いつか千葉が本州に再接続したとき、教育を受けることなく育った千葉の子どもたちは、ハンデを背負うことになる。
だが、当時の千葉では、子どもたちですら、貴重な労働力だった。子どもを持つ親たちとしては、将来に投資するよりも、日銭を持ち帰る労働力のほうが大事だった。教育者たちの熱心さは嘲笑のまとだった(当時の千葉島民のほぼ9割が、「千葉は本州に戻らない」と答えていた)。
そこで採用されたのが、「漢字を教えるのは時間的に大変なので、ローマ字を公用文字として使う」というアイディアだった。
このアイディアが広く支持された背景には、当時の千葉島民たちが、日本国政府の冷淡な態度に失望して、「我々はアメリカ52番目の州になり、名称も『西ハワイ島』にしよう」という突飛な考えに飛びついたこともあった(しかし、これを笑うのは、当時の千葉の状況がいかに地上の地獄であったかを想像できない21世紀人、もしくは本州人の驕りというべきだろう)。
さて、本題である。
当時、千葉島(自称・西ハワイ島)の私塾で、「鳥」という漢字は当然教えられることがなく、「tori」という文字が「sora wo tobu koto ga dekiru sekituidoubutu(空を飛ぶことができる脊椎動物)」を意味した(ちなみに、当時千葉で生まれた子どもたちの中には、名前がローマ字の者も多い。有名なところでは、YOSHIKI、TOSHIなどがいる)。
ここで、注釈を加えなければならないが、当時の千葉島(自称・西ハワイ島)の子どもたちのあいだで流行った言葉遊びがあった。それは、アナグラム遊びだ。たとえば、「binbo(貧乏)」のことを「bonbi(ボンビー)」と言い換えるようなことだ。
「tori」は当然の流れとして、「rito」とアナグラム変換された。このことを教師たちはたびたび注意したが、子どもたちはこっそりとこの遊びを継続した。
後年、このことが深刻な問題となった。
千葉島(自称・西ハワイ島)が本州に再接続したとき、島育ちの子どもたちは、本州の学校に編入し、再教育されることになった。このとき、いくつかの言葉で混乱が見られた。「tori」を「rito」とおぼえた子どもたちが、文字としての「鳥」を、「離島」という意味と結びつけたのである。
だが、これを単に子どもたちの単純な勘違いと捉えるのも、浅薄な見方である。
このシニフィエシニフィアンのずれを、精神分析の専門家は、子どもたちのアイデンティティ・クライシスによるものだと捉えている。
もはや「離島」ではなくなった千葉、しかし自分たちのアイデンティティとしては「離島の住人」であり、ある日突然「本州の住人」と言われてもそのことを受け入れることはできない。その上、本州に再接合されたとき、子どもたちは実際の学齢よりも低いクラスに編入されることになり、ひどくプライドを傷つけられた。
その上、もしかしたら、自分たちは「西ハワイ島民」であったかも知れない、という夢の断念。
当時の子どもたちの魂の叫びを歌ったフォークソングがある。歌詞を紹介しよう。

そこに行けば どんな夢も
叶うと言うよ
はるかな世界
その国の名は千葉
どこかにあるユートピア
どうしたら行けるのだろう
フェリーは出ているのかな
カモメのジョナサンなら行けるかな

この世の地獄と呼ばれた千葉を、ユートピアと表現する逆説。しかし、郷土への愛とは、客観的な生活条件とは無縁のものなのかもしれない。
とまれ、いまでも一部の千葉県人の中には、「島」と「鳥」の区別がつかない者がいる*1が、これを笑うことは日本がかつて経験した悲惨な歴史を忘却していることの証左であり、恥ずべきことであると言わなければならないだろう。
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