『ブラウン・バニー』

これがスキャンダラスな映画だというのは、事前情報として知っていた。
映画を観るという行為には、「街で噂になっているアレを観にいこう」といういかがわしい側面がある。「街」っていうのは、情報誌だったり、批評だったり、口コミだったり……映画館の看板だってそうだ。多かれ少なかれ、観客は「自分がこれからどんなものを目撃するのか」知っている。
この映画の後半で、クロエ・セヴィニーヴィンセント・ギャロに尺八(爆)するというのは、きっと大半の観客が知っている情報だと思う。だから、大半の観客の頭の中では、俺と同じような歌が流れていたんじゃないかな。
「月曜日にバイクでレース/火曜日にトイレに入り/水曜日にバイクを直し/木曜日にシャワーを浴びて/金曜日に彼女を呼んで/土曜日に彼女がなめる/日曜日にいじけてみせる/長い一週間のオーラルセックスー」
……いや、いい映画なんだよ。どうしてギャロの運転する車の窓は汚れているのか、どうしてピントが合わずに手前のガラスの汚ればかりが見えるのか、どうしてギャロは女たちの名札にひきつけられるのか、どうしてギャロは女たちを次々に誘っては捨てる(逃げる?)のか……。
見えるものを写すのが映画だと素朴に考えずに、どうして見えてしまうんだろう?とギャロは考えているみたいだ。見えてしまうことは倫理的なのか? 名前はどうして呼びかけてくるのだろう?
映画はラスト、見えるはずのないものを視覚化してみせる。明晰に。それが映画なんだ、とギャロは言ってるみたいだ。そしてそれを喚起するのが、クロエ・セヴィニーのあるセリフなんだ。
感傷的な映画? とんでもない。残酷な倫理へといたる映画だと俺は思いました。ギャロはメソメソしてるけど。