『スパイダーマン2』@渋東シネタワー

これは……先週?
感動的だったのは、高架を走る列車をスパイダーマンが止めたあとの乗客たちの反応。このとき、マスクがはずれてしまい、顔を隠すべきスパイダーマンは、市民たちに自分の正体をさらしてしまう。通常であれば、素顔はマスクマンにとって弱みであるはずだ(でもなんでだろう?)。が、ここで描かれるのは、スパイダーマンのピンチではない。その正体を知った市民たちは、あどけないピーターの顔を見て、「まだ、少年じゃないか」とつぶやき、ヒーローとは特別な選ばれた存在なのではなく、ヒーローであることを自ら選択する勇気なのだ、つまり誰もがヒーローになりうるんだ、ということを自覚する。
もちろん、これはかなりやっかいな勇気だ。これは誰もが選択しうる勇気であるけれど、それは安寧な場所をもはや約束はしない。
ついに素顔をさらすことにしたスパイダーマンには、この先、平安はないかもしれない。もはや正義は平安な生活の担保にはならない。正義を選択することは、同時に正義の敵によって、平安な生活を脅かされるというリスクを選択することだ。
でもそれがオトナになるってことなんだな、きっと。本当に欲しいものを得るためには、犠牲も払わなくてはならない。そういう単純な「掟」を自らの選択で引き受けることで、ピーターはオトナへと変わる。
「どうせ誰にも理解はされないかもしれないけど、俺のやってることは正義なんだよ」というような捻じ曲がった特権意識がスパイダーマンにはない。それが、このマスクマンの持つ、これまでのヒーローとは違った面なんじゃないかな。


追記。
観ながら、舞台が現代なのかどうかあやふやに感じられた。一応、設定は現在のようなのだが。
その理由についてあれこれ考えているが、一つには、最近の映画では必ずといっていいほど出てくるインターネットが、出てこないからなんじゃないかな。スパイダーマンに関する情報は、まっさきに新聞が発信する。原作の設定なのかもしれないが、一方で狙いなのかな、という気もしないでもない。
ドクター・オクトパスが、病院の手術室で目覚めて暴れる場面。恐怖に絶叫する看護婦のアップにズームするカット。触手が犠牲者を襲うさまを壁に映った影で表現するカット。……などなど、あざといまでのアナクロな演出をあえてしているところからも、なにか狙いを感じる。
なにかのインタビューで、サム・ライミリチャード・フライシャーが正当に評価されていないと嘆いていたが……。
ま、なんとなく気になったので。