『ハウルの動く城』@吉祥寺オデオン

nishiogikucho2005-01-22

ハウルを戦争に協力させようとするサリマンが、「善き魔法使い」の条件として自己犠牲の精神を説くが、ソフィーがハウルの本質が自由を求める精神であることを指摘して戦争には協力させないと啖呵をきる場面、これからの展開を期待させる場面だった。てっきり、サリマンが徹底的にハウルの城を攻撃し、それに対して「力なきものたち」が知恵と勇気を振り絞って「反戦のための戦争」を戦い抜くんだ!そんな展開になるんだろうとワクワクしてしまった。したんだけどね。


ソフィーのキャラクターにもなにか感じるところはあった。自分に呪いをかけた荒地の魔女に出会っても、憎悪を剥き出しにするのではなく、自分と同様の年老いた女として同情をかけたりするし、たったいま対立があきらかになったサリマンの飼い犬が自分たちの城に来てしまうことについても「しようがないわね」の一言であっさりと認めてしまう。それが、宮崎駿の考える、年老いた者のもつ、寛容さのイメージなのだろうか? 現実にどうかは別として、それはそれで面白い。考え抜いた末にそういう寛容さへ至るのではなく、いい加減、なんだ。めんどくさいのかもしれない。なんとかなるかもしれないし、なんともならないのかもしれない。でも、いいや。そういうことを若いキャラクターが口にしたら、観客はきっと「なんてテキトーなんだ! ちゃんと考えろよ!」と文句をブーブー言うかも知れないけれど、この映画のソフィーは(呪いの結果とはいえ)老婆で、老婆にブーブー文句を(面と向かって)言う観客はそうそう多くはないだろう……と考えたんじゃないか?


先日読んだばかりの、『Vシネ血風録』で紹介されていた『延安の娘』に、こんな場面があるそうだ(俺は観ていない)。
延安に住むハイシアという娘がいる。実父ワン・ルーチョンは北京にいる。ホアン・ユーリンという男が、彼女を北京に連れて行こうとする。だが、養父母は反対する。
その背景には、文化大革命とその後の下放政策がある。
俺はこの映画を観ていないので、紹介文から推測するしかないのだが、恐らく実父は責任のある立場だったのだろうし、娘はそういう政治の犠牲者だったのだろう。生みの親より育ての親。養父母はだから、「実父こそが北京から来るべき」「三者で会うべき」と、ハイシアが北京へ行くのを阻止しようとする。
だが、そのとき、村の長老が出てきて、「行かせてやれよ」と言う。

能天気に寅さんのように、長老は、行かせてやりなさいよ、と言葉を吐いて現実を動かしてしまう。(中略)意図するせざるに関係なく間隙を突いているゆえの自由。



「いい加減」が現実を動かす。周囲の理屈は、結局物語を動かさない。物語が悲劇で終わろうが、そんなことは俺の知ったことか、という無責任な発言。しかし、面白い。それは感動を生む。それが物語だ。
もう一度観てみよう、『ハウル』を。ソフィーの無責任さが、どう映画を動かしたのか。それとも、延安の長老ほどには、ソフィーは「いい加減」ではなかったのか?