「文学少女」に対して、「映画少女」というのはあるの?

高校に入学するとき、俺の中には、「あるべき高校生像」があった。「下駄orメガネがデフォルトで、授業にあまり出ず、屋上や喫茶店に棲息していて、SFやジャズや議論が好きで、翻訳されていない英米の本を友人たちと訳して同人誌を作ったり、バンドをやってるやつがいて、学校中退して世界を放浪してみたり、一人ぐらいは東大に行き、やがてそいつらは作家や映画監督や弁護士や政治家として再会する」そんな高校生。はいるわけがなかった。
でも、いつも思っていた。同世代、この日本のどこかに、いつか「天才」と呼ばれる奴がいて、そいつは俺のことなんておかまいなしに、自信にあふれて自分の道を進んでいるんだろうって。空手バカボンの曲に、なんかそういうのあったな。ほら、屋上の上で猫がどうのって曲。あ、あと、最近読んだのでは、『天才ファミリーカンパニー』とかね。
自分がそういう物語の主人公ではないことに落ち込んでみたりね。そういう空想好きの高校生だった。


そんな空想の一つに、「文学少女」があった。「周囲の馬鹿騒ぎについていけずに、いつも図書館でサルトルバタイユ寺山修司を読んでいる彼女は、たまたまいつも通っている喫茶店のマスターに『文学、興味ある? こんど読書会をやるんだけど、参加しない?』と誘われて、そんな話が出来る年上の人と知り合える嬉しさにかすかに頬を紅潮させ、小さく頷く。で、その読書会で、ちょっと高飛車でいやみな感じの年上の青年と知り合う。人をコバカにしたような態度に、彼女は反感を抱く。その青年はよくこんなことを言う、『僕は必ず世に出るよ。違うな。世界が僕を必要としてるはずなんだ」。彼女は彼が嫌いになる。が、何度か読書会に行くうちに、その青年は来なくなってしまう。一方、彼女はその読書会で、30代後半の現役作家と知り合い、彼の家によく遊びに行くようになる。彼女はその作家のファンだった。いつしか男女の関係になるが、そのころになってようやく彼が、ひどく俗っぽい人間であることに気づき、彼女は失望を禁じえない。まるで自分が大好きだった文学が汚されたように感じる。そんな彼女が書店で「群像」を手に取る。いつもは「文藝」を買っているのに、なんとなくだ。パラパラとめくった手が止まる。新人賞を受賞しているのは、あのいやみな青年ではないか。『あの人、自分の言ってること、実現したんだ……』。そう呟く彼女は、我知らず嬉しさを表情に出してしまっている」そんな文学少女。って、これ、主人公感がないから、違うな。男にとって都合のいい女、だね。すまん。エロ小説のプロットみたいだ。


数年前、京橋のフィルムセンターで、ジャン・ルノワールの特集があった。全作品、観た。数週間、通うわけだ、フィルムセンターに。バイトが終わると走って行った。で、そうすると、常連の顔ぶれをおぼえてくる。まあ、フィルムセンターとかアテネフランセに通ったことのある人は、想像がつくだろう。偏屈そうな男ばっかりだ。あと、暇なおばちゃんね(でも、俺はおばちゃんは好きだ。楽しんでいるから。男どもは(俺がそうだったからだけど)「教養」を見つけにきている。それが嫌だ。もっと享楽的になればいいのに)。
そんな常連の中に、一人だけ、高校の制服を着た女の子がいた。不思議だった。いつも一人で来ているようだった。どんなふうにして、ルノワールに辿り着いたんだろう? 蓮実重彦とか読むのかな? その本、誰かに薦められたのかな? 現代国語の先生が映画好きで、その先生の授業だけがいつも楽しみで、放課後、職員室に質問をしに行ったとき、その先生の机の上にルノワール特集のチラシがあって、「先生、それなんですか?」と聞いて、その先生が熱く映画について語ってみたりして、その少年のような熱心な語り口と、子どもっぽい横顔に彼女は思わず微笑んで……うわ。すまん。それは俺の妄想だ。
で、俺はその子に声をかけたりはしなかった。でもなんとなく、自分が高校生の頃に出会いたかったのは、あんな子だなぁ、と思っていた。俺は、高校生のときに、俺の妄想するような同級生たちに出会って、自分のライバルになって欲しかったんだな。


で、本題。って、前フリが長すぎ! いや、ただ単に、「文学少女」ではなくて、「映画少女」っていう概念はあるのかなぁって、それだけ。
あと、「フィルムセンターでお前が見かけたのは私だ」という女性の方は、連絡をください。なんとなく、はてなで日記書いてそう(妄想&独断&偏見)。