今年は頻繁に更新するけど、どうでもいい内容になっていきます。

晦日の昼間から咽喉が痛くなってきて、正月はずっと寝込んでた。風邪です。
というわけで、ずっとほったらかしにしてた本を二冊読んだよ。
荒野へ (集英社文庫 ク 15-1)
「ブレードランナー」論序説 (リュミエール叢書 34)
『荒野へ』は、ショーン・ペンが映画化したということで今後話題になるのでは? 監督としてのショーン・ペンは本当に素晴らしいので、いまからとても楽しみなんだけど、この本自体とても興味深く読むことができた。
「そういうふうにしか生きられない生き方」というのは、実際にある。文明から遠く離れて生きることを決意した若者が、アラスカの原野に分け入って、そこで得られるものだけを口にして生きようとして、そして死んだ。
その事実が報道されたとき、多くの人たちは「無謀な若者の愚かな行動」と彼をさげすんだ。例えば狩猟を生業とするような人たちはことさら、そう批判したらしい。もしもそういう生活をするのならば、それ相応の準備や知識・知恵が必要であるのに、死んでしまった若者にはそういう自覚がなかったように思われたから。若さゆえの思い上がり。それが、彼に対する世間の評価だった。
でも、そういう人間がいるんだ、ということを僕らはまず人生の前提にしなくちゃいけない。なんでかっていったら、それは一握りのアウトサイダーにのみ当てはまることじゃなくて、基本的にあらゆる人間が実はそうやって生きてるからだ。たまたま俺やあなたは、いまのところ世間と(自分自身とも)なんの軋轢もなくつきあっていられる、それだけのことだ。
俺はこの本を読んでいて、これがある特殊な魂の持ち主をロマンチックに持ち上げる本ではないと思って読んでいた。後半、著者でありかつては自分も放浪者だったクラカワーは、自分が生き延びて、この若者が死んだのは、「たまたま」だと繰り返す。彼が特別愚かだったわけでも、自殺願望があったわけでもない。
死によって、彼は世間の注目を浴びた。たまたま彼の生き方が、多くの人と違っているように見えたから。それを愚かだと断じることで、自分たちの生き方が正当化できるから。
だけど、誰が自分の隣人の生き方を本当に理解しているというのか。あるいは、自分の生き方ですら。


奇妙なことに、『ブレードランナー論序説』もまた、生と死を巡る哲学的な考察をクライマックスに持ってきていた。そのことについてはまたいずれ(書くだろうか?)。