病院のロビーにて

晦日からずっと風邪。未だ治らず。今日、ようやく病院に行き、薬をもらってきた。とにかく咳がひどい。腹筋と背筋が痛い。頭痛もするし、苛々してばかりだ。せっかくプラズマテレビが届いたというのに(迷った末42型にしました。場所をとりすぎるのでは……というのは杞憂でした)。
どうせ病院に行っても長い時間待たされると予想したので、ちょうど7日であるし文芸誌を二冊購入した。『文學界』と『新潮』。
文學界』の新春特集「文学の鬼」には笑った。すごいタイトルだね。特集には二つの記事が含まれている。阿川弘之大久保房男の対談「文士の魂」とは。これがひどい。もう一つは大西巨人市川真人がインタビューした「文学とは困難に立ち向かうものだ」。これは面白い。もしかしたら、「文士の魂」は「文学とは〜」を引き立てるためにわざわざ仕込んだネタなのかもしれない。
「文士の魂」、基本的には老人二人の思い出話。「昔はよかったね」式の。こんなの飲み屋で勝手にやればいいのに……という感想しか思い浮かばない。
「文学とは〜」を読むと、阿川弘之大久保房男よりも年長の大西巨人のほうが若々しいということがわかる。最近の小説を読まない(読めない?)と言っている前者たちに対して、大西巨人阿部和重保坂和志目取真俊笙野頼子郄村薫宮部みゆき桐野夏生などの具体的な名前をあげている(とはいえ、彼らだってすでに中堅か)。まあ、是非図書館で読み比べてみてください。
『新潮』に掲載されていた高橋源一郎田中和生東浩紀の「小説と評論の環境問題」、これは次号に続くみたいなんだけど、正直田中和生はいなくてもよかったんじゃないかな。なんか馬鹿正直だけがとりえの若い侍が、ずっと自分の理想を一人で語っている感じがして一人浮いている。まあ、それはこの鼎談の冒頭が、高橋源一郎の次の一言から始まっていることからも、予想できることだ。

高橋 いま、僕と田中さんの間で文学論争があるとされています。論争自体は生産的にもなりえる貴重なものですが、僕自身は、相手の弱点を攻撃することへの危惧があり、相手の屍から有意義ななにかが得られるとも思わないので、実はこの件について改めてお話しする気持ちはありませんでした。

冒頭でほぼ全否定。でもこの鼎談に参加したのは、東浩紀が『新潮』に発表した「キャラクターズ」(桜坂洋との共著)*1という小説と評論のハイブリッドのような作品に興味を持ったから。もう最初から標的は東浩紀だけ。で、東浩紀は小説のようなもの(「なんちゃって評論」と本人は言っている)を書いてみても、小説の秘密のようなものはわからなかった、と韜晦するんだけど、鼎談の後半になって、こんなやりとりがある。

東 こんなふうに言えますでしょうか。僕はもともとラカンデリダのテクストが好きなわけですが、ご存知のように、彼らのテクストは、普通に見て秘教的な言葉、魔術のような隠喩で満たされている。僕は、そんな秘教的な現代思想ジャーゴンをいっぱい知っているのですが、それを魔術っぽく使うことは、これまでいかなる評論でも行うことができなかった。というわけで、今回の小説ではそれができてうれしかった(笑)(中略)人文的な思考って、もともと魔術に近いところがある。そして、僕自身もそんな魔術に助けられてものを考えている。そんな感覚を、すっと言葉にできたのはとてもよかった。
高橋 たしかに、小説を書いていて実感するのは、魔法を使えるという感覚なんですよ、比喩的に言っても。最初は、その入ったステージの法則を知らないから、魔法が使えない。ところが、歩いて行くうちに魔法が使えるとわかり、使うと――具体的にいえば、小説を書くことで見慣れた言葉がべつのものに見えるということですが――そのステージをクリアすることができる。するとまたつぎのステージが見えてくる……。小説を書くことの根底には、この運動に慣れていくことの喜びがあるんじゃないかな。これは小説の形式の問題ですが、形式が魂であるような場所ですからね。僕には東さんも、そうした発見をしながら、小説のステージを歩いている感じが伝わってきたんです。
東 ああ、なるほど。

まあ、このくだりが面白いのは、やっぱりそれまでの流れがあるからなんだけど。田中和生が執拗に東浩紀に食い下がるんだけど、東浩紀はそれをずっと鬱陶しい蝿のようにあしらって、きちんと相手にしようとしない。自分の立ち位置を微塵も変えようとしない。でも、上記引用の部分でけっこうあっさり武装解除してしまう。このへんに、高橋源一郎の老獪さがあるような気がする。一見、平易な語り口で誰に向かっても平等に語っているように見える高橋源一郎が、勉強はできるかもしれないけど論理の果ての飛躍とは恐らく無縁であろう田中和生は相手にせずに(実は)魔術を信じる東浩紀のほうだけを向いている。「小説のことは小説家にしかわからない」*2という言葉を、恐らく田中和生は字義通りにしか読み取れずに、躓いてしまったのだろう。でも、東浩紀ならたとえ「キャラクターズ」を書かずとも、そんな躓きはしなかっただろう。
あと面白かったのは、『文學界』の「映画の頭脳破壊」かな。気になるのは、中原昌也が最近ケータイで短編映画を撮ったという事実。いや、それ自体はすでに知っていたけど、そこでなんらかの変化が起きたのか、映画に対する目線が少し変わったようにも思える。一体、「中原組」ではどんな日常が送られたのだろう?

*1:『新潮』07年10月号

*2:『文藝』06年冬号での保坂和志との対談における高橋源一郎の発言